■下地調整

下地の乾燥、汚れ、付着物の除去、穴埋め、 吸込み止めやアルカリ止めなどのためにシーラを塗るなど、 施工に適するよう下地をあらかじめ整えることをいう。 外国為替証拠金取引においても、第26代当主を継いだ千葉親胤の時代には、原胤清によって暗殺されてしまい、続いて第29代当主を継いだ千葉邦胤が1585年に家臣の手で暗殺されるなどの混乱が続き、1590年、第31代当主千葉重胤の時に豊臣秀吉の小田原征伐で後北条氏が滅亡したことにより、千葉氏も所領を没収され、戦国大名としての千葉氏は滅亡した。重胤は徳川家康に仕えたが、後にそれも失い浪人となった。他には仙台藩や一関藩に仕えた者もいる。 千葉氏一族は奥州でも活躍した。改姓した相馬氏、葛西氏は特に有名であるが、他の大族としては薄衣、長坂、大原氏らが葛西氏重臣として活躍、他大崎氏、伊達氏に仕えた一族もあり敵味方に分かれて戦った。千葉氏の名乗りのまま戦国時代に突入した分枝もある。 しかし本家に遅れること5年、1590年のいわゆる奥州仕置と葛西大崎一揆、九戸一揆の過程で葛西氏は改易、主だった者は相次いで戦死、或いは一揆首謀者として処刑、改易され、葛西氏ら奥州の千葉一族は相馬氏などを除いて歴史の表舞台から姿を消した。相馬氏は近代大名として明治維新を迎えた。 資産運用となった一族は仕官を求めて東日本各地へ離散した。帰農した者も多く、奥州仕置で他の没落した諸氏と同様、奥州各地で庄屋、豪農などの上級農民層を形成した。 日本の氏族である。 三浦氏の庶流であるが、具体的な系譜については相模三浦氏の後裔とされるなど諸説がある。 中世においては江戸湾から房総半島沿岸を舞台に水軍・交易の任にあたっていた。 もっとも著名なのは、安房南東部を拠点として戦国大名里見氏に仕えた重臣の系統である。里見家より姫を貰い血縁関係を結ぶなど特別な関係にあった正木氏の立場は里見氏と同じ戦国大名だと見なされ、どちらかと言うと盟友とも呼ぶべき関係にあったとするのが正確である。その一方で、江戸湾沿湾の正木氏(「内房正木氏」)の中には北条氏に仕えて里見氏と対立した一族も存在した。 この氏族出身に、徳川家康の側室になった、正木頼忠の娘、お万の方(養珠院)がいる。柾木を称する家系もある。 里見氏は贈鎮守府将軍・新田義重の庶長子・新田義俊(里見太郎)を初代とし、別名「大新田」氏ともいう。里見の名は新田義俊が上野国碓氷郡里見郷(現在の群馬県高崎市里見)に移り、その地の名を苗字としたことに発する。また系図によると新田竹林六郎太郎とも称していることから新田荘内にも所領を持っており、里見氏の本拠を竹林(高林)郷とする研究もある。鎌倉時代になると、義俊の長子里見義成が源頼朝に仕えて御家人となった。義成は頼朝に重用され、頼朝の死後も代々の将軍に近侍した。 投資信託の里見義胤(義俊7世孫)の代になると本宗家の新田氏と共に倒幕軍に参加。新田義貞に随行し、鎌倉攻めに加わり功を挙げ、戦後越後国の守護代に任ぜられた。南北朝の動乱では一族が南朝方・北朝方に別れ戦ったが、南北朝統一後にその一部が鎌倉公方に仕え、上野国・常陸国などに所領を与えられた。しかし里見家基が結城合戦において鎌倉公方(足利持氏の遺児、春王丸・安王丸)方についたため、足利義教の命を受けた幕府軍の攻撃を受け滅亡した。 その後、詳細は不明だが家基の子息、里見義実が安房国に移って土地の領主安西氏を追放し安房の領主となる。これが安房里見氏の祖とされている。しかし、安房里見氏初代義実・二代成義を架空の人物とする説もあり、安房里見氏の出自は不明な点も残っている。また、近年では天文の内訌によって、嫡流家を倒して宗家の地位を奪った里見義堯とその子孫による系譜の改竄が行われたとする見方が濃厚となっている。 戦国時代になると里見氏は関東副将軍を自称し小弓公方足利義明を奉じ、上総・下総・相模へたびたび侵入し、後北条氏をはじめとする反小弓公方派の大名・国人と争う。大永6年11月26日に里見実堯(里見義豊とする説もある)が三浦郡・鎌倉郡へ侵入し、鶴岡八幡宮を焼き、玉縄城下で北条方と戦った時も小弓公方の意向に従ったものであるとされている。 天文2年(1533年)7月27日、里見義豊が里見実堯を討ち一時実権を握るが、翌年4月6日には実堯の実子の里見義堯が、後北条氏の与力を得て、里見義豊の籠もる稲村城を落し、義豊を自害に追い込み家督を継いだ。この一連の内紛を天文の内訌(稲村の変)と呼ぶ。近年では、庶流である里見実堯・義堯父子による宗家に対する下克上の一環であったとの見方が強まっている。このため、義豊以前を「前期里見氏」、義堯以後を「後期里見氏」と呼んで区別する研究家もいる。 その後、里見義堯は後北条氏と手を切り、再び小弓公方方につく。その後は後北条氏や上総武田氏とたびたび干戈を混じえた。このころの里見氏は第一次国府台合戦・第二次国府台合戦における大敗、後北条氏による安房攻めなどでたびたび苦境に陥ったが、越後上杉氏と同盟を組むことにより切り抜けた。そして次第に上総へと勢力を拡大していった。 義堯の跡を継いだ里見義弘は越後の上杉氏、甲斐の武田氏と同盟を組み、着々と勢力を拡大。下総南部にも影響を及ぼすようになった。そして天正5年(1577年)には、たびたび干戈を混じえた北条氏政と和睦し、最盛期を迎えた。 義弘が天正6年(1578年)に死ぬと、お家騒動や上総国人の離反などにより一時家勢は衰えた。しかし家督争いに勝ち、里見氏の当主となった里見義頼は豊臣秀吉に接近し、安房・上総全域と下総南部の安堵を得る事に成功する。 義頼の跡を継いだ里見義康は、小田原の役における遅参・惣無事令の違反により秀吉の怒りを買い、上総・下総を没収された。このとき徳川家康がとりなした事により、以降里見氏は徳川氏と誼を通じるようになる。 その後関ヶ原の戦いで功を挙げ常陸鹿島にて3万石が加増された。また、義康の弟の里見義高も上野板鼻藩主に任じられた。だが、慶長18年(1613年)に里見義高が突如改易処分となり、翌慶長19年(1614年)には宗家の里見忠義が舅である大久保忠隣失脚に連座して安房を没収され、鹿島の代替地として伯耆倉吉3万石に転封となった。しかし実際は、彼には100人扶持ほどの糧米しか与えられておらず、配流と同じ扱いだった。そして元和8年(1622年)、忠義が病死すると、跡継ぎがいないとして改易された。 実際には、忠義には正室に2人の女子がいたほか、側室に3人の男子がいたといわれている。これについては、跡継ぎがいないとの理由は幕府の口実であるとする説と里見氏再興の旗印を必要としたために一族あるいは家臣の子を偽って「忠義の子」としたとする説の両説がある。忠義の子であるとされている里見利輝は、もと家臣の印東氏に育てられたという(前述のように忠義の子であることを疑う説もある)。子孫は越前鯖江藩・間部氏に仕えた。他の子も子孫を残しており、それぞれ旗本となったり他家に仕えたという。一方、忠義の叔父である里見義高は改易後に酒井家に預けられて子孫はそのまま出羽庄内藩の家臣として仕えている。 曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』はこの安房里見氏の初期を舞台に家臣達が活躍する物語である。 里見義成の次男 義直の家系に出羽国に移住して勢力を築いた一流がある。 南北朝時代、出羽国成生庄に扶植した里見義景は子がなく、同じ源義国の家系で足利氏の一門斯波家兼の三男・天童義宗を養子とした。里見義宗は家督を継ぐと天童氏と称し、里見氏の一門を家臣団として編成して勢力を拡大していった。こうして新田系の家系ながら足利氏の血をひくこととなった天童氏は上之山氏、東根氏、鷹巣氏という庶流を領内各地に移住させて支配権を確立していった。南北朝時代から室町時代にかけての出羽国南部は斯波家兼の次男・最上兼頼にはじまる最上氏が国人を統合し支配圏を固めており、兼頼の実弟の養子入りした天童氏に対しても従属化を求めるようになる。しかし、天童氏は斯波氏から養子をとっただけで家系は新田氏の一門であることから一定の独立を維持してきた。天童氏は延沢・飯田・尾花沢・楯岡・長瀞・六田・成生家らとともに最上八楯を形成し、最上氏や出羽に侵攻をたくらむ伊達氏と対抗していった。 最上義光が羽州探題として勢力を拡大していくにつれ、天童氏にも従属化を求めるが天童氏がこれに従わなかったため、最上と天童の間で戦が起こった。停戦に及んだ義光は天童との講和を結び、天童氏の娘と婚姻。縁戚となった油断をついて天童氏を滅ぼしてその家臣団をも吸収した。以後、天童氏の一門や配下は最上家臣として最上家の覇道に貢献してゆくことになる。 里見義堯の五男に里見義政がおり、その五世里見義冬が水戸藩士となった。その他、出羽・里見氏の傍流に水戸藩士となった家系がある。主家・天童氏の滅亡により最上家臣となった里見一族は、最上家の勢力拡大に貢献するも、最上家親の代に御家騒動が勃発し、江戸幕府の命により改易されてしまった。最上家臣であった里見義親は、改易によって松平筑前守に再仕官したが、主筋の山野辺義忠が水戸藩に仕官したのに伴い、自らも水戸藩に仕官することとなった。子孫に幕末の志士里見四郎左衛門親長がいる。親長は戸田三衛門忠之の娘と婚姻し、嫡男の親賢が生まれる。親長・親賢親子は、縁戚である水戸藩家老戸田忠太夫・安島帯刀兄弟とも関係が深く、尊皇攘夷に邁進、天狗党の乱にて諸生党の攻撃を受けて討ち死にしている。