■しごき

モルタル、コンクリート、木部など表面にパテなどを薄く塗り付けること。 くりっく365により鎌倉公方が衰退すると結城氏の命運も暗転し、結城氏朝・結城持朝は永享の乱の後に将軍・足利義教に追われた鎌倉公方の足利持氏の遺児たちを匿って幕府軍と結城合戦を行い一時滅亡する。その後、持氏の遺児の足利成氏が鎌倉公方に復帰すると、結城氏も再興を許されたものの、家臣筋の多賀谷氏、山川氏、水谷氏等が独立色を強めたため、衰退の一途をたどる。戦国時代に入り、享徳の乱が勃発し、結城氏は古河公方を支持して山内上杉氏と長期に渡る抗争を余儀なくされるなど悪条件が重なったが、そのような中で名君と呼ばれた15代当主・結城政朝が登場した。彼の治世のとき、結城氏は、多賀谷氏や山川氏を屈服させ、さらに周辺勢力との抗争に勝ち抜くことにより、戦国大名としての飛躍を遂げることになる。その子・結城政勝の時代には小山氏に子の高朝を送り同盟関係を強化し、晩年には分国法の「結城氏新法度」を制定するなど政治的・軍事的基盤を固め、勢威を常陸や下野にまで伸ばして、再びの最盛期を築き上げた。 政勝には子がなく、跡は高朝の子である結城晴朝が継いだが、晴朝の時代においては、古河公方の没落は顕著となり、新たに勃興した相模北条氏康や関東管領を継承した上杉謙信の侵攻を受けて、結城氏は北条・上杉の間を転々としながら勢力を保つのみになり、晴朝の実家である小山氏との関係も険悪となった。1590年、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣して、近世大名として生き残ることに成功し、改易された旧小山氏の所領と旧小田氏の所領の一部(土浦城一帯)が戦功によって結城氏に与えられている。 FXが無く、初めは宇都宮広綱の次男で佐竹義重の甥に当たる結城朝勝を養子に迎えていた。だが、小田原征伐後に結城氏の所領が大大名である徳川氏の所領と隣接するようになる。このため朝勝を廃して、徳川家康の次男で秀吉の養子になっていた結城秀康を養子に迎えて家督を譲ることで豊臣・徳川両氏の信頼を得て結城氏の存続を図った。しかし、関ケ原の戦いの後に秀康は越前に移封されて1604年には名字を松平に改めることになる。秀康の没後、結城家は秀康の五男結城直基が継ぐことになる。しかし、直基も後に松平を名乗り(前橋松平家)、大名の家名としては下総結城家の家名は消えた。なお、家名は松平家となったが、下総結城氏の祭祀は代々の前橋松平家当主が継承している。また家紋については結城家のものを、そのまま用い、小山氏に由来する結城巴と秀康以来の太閤桐であった、この点は、その他の越前松平諸家とは一線を隔する。 別系統に白河結城氏の末裔たる結城氏のうち一部は、水戸藩士として1000石、家老の家格を有した。小山氏、宇都宮氏と並び水戸藩御三家として尊ばれ代々家老を務め叙爵(従五位下と官職を受けること)を受ける家柄であった。しかし、結城寅寿の代に藩主毒殺を図ったとして、反逆の罪で絶家とされた。寅寿の子 結城種徳は牢死し、結城家は大森家から養子を迎え入れて存続した。なお、水戸藩の結城氏は庶流であり、白河結城氏の末裔は秋田藩士、仙台藩士として存続している。 FXに名主の結城氏が存続。結城300石といわれる石高を有した。 平常長は上総国山辺郡大椎(現在の千葉市緑区大椎)に舘を築いて本拠とした。その子常兼の代に従来上総国に土着していた一族の下総国への進出が始まったと思われる。又常兼は上総権介か下総権介(若しくは両方)に任じられて本拠地の大椎より大椎権介と呼ばれた。これは後になって千葉大夫と呼ばれるようになる。 さらにその子常重は長男でありながら惣領では無く、ここに房総平氏は千葉氏と上総氏の2つの流れに分かれることになった。さらに大椎から下総国千葉郡に移って現在の千葉市中央区猪鼻(亥鼻)付近の舌状台地に館を築いたとされる。ただし現在「千葉城」「猪鼻(亥鼻)城」と呼ばれているものは1967年(昭和42)に千葉市郷土館(現・千葉市立郷土博物館)として建造された近世城郭風の現代建築物であり、当時の建物とは全く異なる。又下総権介となり千葉介を名乗った。以降千葉氏の惣領は千葉介を名乗る事になる。 上総氏との分裂の経緯から、千葉氏と上総氏の間には所領を巡る争いがあった。常重の子千葉常胤の頃には周辺に土着した武士(佐竹氏ら)との間で相馬御厨を巡る争いがあった。常胤は下総権介でありながら下総一国を掌握する事さえままならない状態であった。こうした中で1180年に源頼朝が平氏に対して挙兵し、石橋山の戦いに敗れた後に安房国へ渡ると、常胤は頼朝から加勢を求められこれに応じた。常胤は平家との戦いや奥州藤原氏との戦いで活躍し、更に上総氏の惣領上総広常が頼朝に嫌われて粛清されると、千葉氏の権力は上総国まで及んだ。鎌倉時代には下総の守護とされた。 ところが、元寇に出陣した千葉頼胤が戦死して嫡男の宗胤が代わりに九州に下ると、下総の留守を守る家臣達の中に下総守護の職務が行えない宗胤に代わって弟の胤宗を当主に擁立して宗胤には肥前国などの九州の所領を与えて現地に留まるように望む意見が高まった。これに反発する宗胤とそれを支持する家臣はこれに抵抗し、長期にわたって紛争を続けた。宗胤の子・千葉胤貞は折りしも勃発した南北朝の戦いに際して北朝方について南朝方の千葉貞胤(胤宗の子)を攻めた。ところが、貞胤も北朝側に寝返って室町幕府より下総守護の地位を保証されて下総にあった胤貞派の所領を奪って下総一国を掌握した。このため、胤貞の子孫は下総復帰への望みが絶たれて肥前国に土着し、九州千葉氏を興す事になった。 室町時代中期の1455年、享徳の乱で千葉氏内部での分裂が起り、嫡流は事実上滅亡する。しかも筆頭家老である原氏の勢力が千葉氏の当主より強大化することになる。これに対して室町幕府の命を受けた太田道灌や東常縁(千葉氏支流・東氏出身)らは、嫡流の千葉胤賢の遺児実胤と自胤を擁立し下総に侵攻して千葉氏を奪った馬加氏を滅ぼす事に成功する。だが、原氏をはじめとする家臣団は古河公方の支援を受けて、馬加康胤の庶子とされる千葉輔胤を擁立し、領国内を掌握したために討伐軍は目的を果たせずに下総から撤退する。以降千葉氏は本拠地を現在の千葉市から佐倉市、酒々井町の一帯に移し、衰退の一途をたどることとなる。 千葉胤賢と千葉輔胤の系統は互いに千葉氏の宗家を名乗った。便宜上、前者を武蔵千葉氏、後者を下総千葉氏と呼称する事がある。だが、輔胤の系統が古河公方の支援を受けて下総本国を掌握していったのに対して、胤賢らを支援してきた室町幕府が古河公方との和議に踏み切って享徳の乱による古河公方主導の再編を黙認したために武蔵千葉氏が下総へ帰還する望みは失われ、石浜城(現在の浅草)を中心とした小領主に転落する事になった。以後下総千葉氏の当主が千葉氏歴代当主として系譜に記載される事になる。 戦国時代に入ると、小弓公方足利義明や安房の里見義堯の侵攻を受けるようになる。衰退してゆく千葉氏には独力で里見氏に対抗するような力はもはや無く、北条氏康と姻戚関係を結ぶことで、後北条氏の支援をもとに里見氏に対抗するしかなかった。しかしこのため、千葉氏の支配領土である下総は、実質的に後北条氏の支配圏として牛耳られることとなる。 千葉氏内部においても、第26代当主を継いだ千葉親胤の時代には、原胤清によって暗殺されてしまい、続いて第29代当主を継いだ千葉邦胤が1585年に家臣の手で暗殺されるなどの混乱が続き、1590年、第31代当主千葉重胤の時に豊臣秀吉の小田原征伐で後北条氏が滅亡したことにより、千葉氏も所領を没収され、戦国大名としての千葉氏は滅亡した。重胤は徳川家康に仕えたが、後にそれも失い浪人となった。他には仙台藩や一関藩に仕えた者もいる。