■JIS

工業標準工法に基づいて、鉱工業品についてその品質を定め、 これを調査会の議決をもって指定商品化し、通産大臣の許可を受けて表示される。 品質管理と品質の安定がその主たる目的。 外国為替に足利尊氏の次男基氏が鎌倉に下向して鎌倉公方(関東公方)となると、憲顕は関東公方の執事(のちの関東管領)となり、公方を補佐して関東の政務を取り仕切った。憲顕は観応の擾乱の際に足利直義方についたために上野・越後守護の地位を奪われて一時没落するが、尊氏の死後に基氏の懇願で関東管領に復帰、その口添えで罪を許されて上野・越後守護の地位を回復した。15世紀前半に憲顕の兄弟から出た宅間家、犬懸家が相次いで衰亡すると、山内上杉家は上杉氏の宗家となり、関東管領の職をほとんど独占、上野国を本拠に武蔵、伊豆に勢力を張った。 しかし、15世紀後半から戦国時代に差し掛かると、憲顕の叔父から出た扇谷上杉家が家宰太田道灌の補佐のもと勢力を拡大し、山内家と並ぶ勢力となった。以来、山内と扇谷の両家は、関東管領の座をめぐって数十年にわたり抗争を続けた(長享の乱)。山内上杉家は勝利を収めて関東管領の地位を守ったものの、上杉顕定の死後に2度もの家督争いが発生した結果次第に衰退していき、16世紀に入ると、伊豆に興り相模を平定した新興の後北条氏の圧迫を受けた。 外為の関東管領上杉憲政は、後北条氏に対抗するために扇谷家と和睦を結んだが、1546年の河越夜戦で大敗して勢力を急速に喪失し、1552年に上野を逃れて越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼った。1561年3月、憲政は景虎を嗣子として家督と関東管領職を譲り、大名上杉氏の家名は長尾氏により存続することとなる。 その後、憲政は1579年の御館の乱の際に和睦交渉へ向かう途上で、上杉景勝方の兵士により討たれた。憲政の孫・曾孫たちの存在が江戸時代に確認される。 横瀬氏は、小野篁の流れをくむ小野氏の末裔とされる武蔵七党の横山氏・猪俣氏の一族である。新田荘横瀬郷を本領とし、横瀬氏を称した。岩松氏の重臣であったが、次第に実権を握り主家を圧倒するようになる。 第7代当主・横瀬泰繁の代には主君の岩松昌純を殺害し、金山城を奪った。以降、岩松氏は監禁状態に置かれた。横瀬氏は下克上を起こしたのである。 FXは新田荘の中心地であったという由良の地より苗字をとり、由良成繁と名乗る。その先祖は新田義貞の3男・新田義宗の子と自称した貞氏[1]である。また、その貞氏が新田政義[2]の末子と自称して、由良貞氏と名乗った説がある[要出典]。貞氏の子の貞治、孫の貞国と続き、貞国の子・景繁、国経、泰繁[3]と相続している系譜が存在する。 成繁は上杉謙信と結び、後北条氏に対抗した。反北条連合に加わったが、沼尻の合戦で反北条連合が負けると北条氏に屈服し、金山城を明け渡し、第9代当主・由良国繁は小田原城に事実上人質となった。天正18年(1590年)、小田原の役で北条氏が敗れると、由良国繁は解放されたが、所領を没収された。 由良国繁は北条氏に代わり関東に入府した徳川家康に謁見し、常陸国牛久に5400石を与えられた。後に高家に列し、明治維新を迎えている。冷泉派の歌人、横瀬貞臣が出る。 なお、河内源氏重代の家臣である紀氏の一族であるという船田氏とともに、新田氏本宗家累代の家臣である由良氏は武蔵七党丹党の出身であるとの研究がある。 戦国時代まで上野国西部を支配していた大身である。上州長野氏とも。 『伊勢物語』の主人公であるとされる在原業平が、関東に下向したことが始まりであると言われているが、もとより伝承の域を出ない。 上野長野氏の第30代当主・長野憲業(または第29代当主の尚業)が名城・箕輪城を築城した。戦国時代中期まで上野国は関東管領の山内上杉氏の領国であり、守護代の長尾氏(白井長尾家、総社長尾家)の本拠地も上野に存在したため、長野氏はその上杉氏の下で上野国西部の豪族を取りまとめて『箕輪衆』を結成し、上杉氏・長尾氏に仕えていた。しかし、上杉氏と長尾氏が享徳の乱・長享の乱や長尾景春の乱などで衰退すると、長野氏は徐々に頭角を現し、河越夜戦で大敗した関東管領上杉憲政が北条氏康に敗れて上野国を追われた後も、長野氏当主の長野業正は箕輪衆を取りまとめて、婚姻政策などにより西上野の支配圏をなおも維持した。この業正に対し、北条氏康や甲斐・信濃を支配する武田信玄が上野西部に何度も侵攻して来るが、業正は寡兵でありながらこれを何度も撃退した。 しかし1561年、長野業正が死去した隙を突いて武田信玄が上野西部に侵攻してくると、業正の子の長野業盛は頑強に抵抗したが、1566年に敗れて自害し、上野西部は武田氏の支配下に入ったのであった。 その後、長野氏の一族は武田氏の没落後、井伊氏に仕えることになり、井伊家の次席家老として彦根に赴き、幕末を迎えた。 長野氏の一族としては、鷹留長野氏、厩橋長野氏があるが、いずれも箕輪の長野氏と前後して没落している。 藤原秀郷の末裔・小山朝光(結城朝光)が平安時代後期に源頼朝の挙兵に従い、志田義広滅亡後の鎌倉時代には下総の結城(茨城県結城市)を領した事が結城氏(下総結城氏、本記事中では一部を除き単に「結城氏」と記す)の始まりであるとされている。朝光は古くから源頼朝御落胤説があり、北条氏のために親子の名乗りができず、その代わりに身分の上では小山氏の庶子に過ぎなかった朝光にあらゆる優遇を施したという。それ故か、伝統的に源氏を称している。あらゆる名族が起きては滅び、結城氏も翻弄され家運定まらぬ中で、鎌倉以来の名族中の名族としてその家名を後世に伝えた。 朝光とその子結城朝広の時代、幕府の要職を歴任し、鎌倉府の御家人の中心として繁栄期を迎えた。しかし、朝広の子の結城広綱以降は当主の夭折が相次き、衰退することになる。鎌倉幕府の滅亡後は白河結城氏に一時惣領の座を奪われるなどやや勢力は振るわなかったが、結城朝祐・結城直朝は足利氏に接近し、その覇業を助け転戦し、直朝の弟の結城直光の代には安房の守護を務めるなど再興を果たしている。 鎌倉時代末期、朝広の子の一人である結城祐広は白河(福島県白河市)を本拠として白河結城氏(白河氏、または白川氏)となる。1333年に後醍醐天皇が鎌倉幕府に対して挙兵すると、祐広の子の結城宗広は新田義貞の鎌倉攻めに参加し、鎌倉幕府滅亡後の建武の新政においては宗広の子の結城親光が三木一草と称される1人となった。また、親光の兄の結城親朝は奥州府の一員となり陸奥守北畠顕家と北畠親房父子を補佐する。足利尊氏が建武政権から離反し南北朝時代になると、下総結城氏が足利方に従ったのに対し、白河結城氏は南朝方に属した。親光は尊氏が九州から入京を果たした際に尊氏暗殺を試みて失敗して殺され、宗広は北畠親子に従い続けたが、親朝は常陸(茨城県)へ渡り関東地方における南朝勢力を確保しようとした親房の救援要請に対し距離をおき、1342年に足利方に従う。以降の白河結城氏については白河結城氏の項目を参照。 室町時代前期には、本来、結城氏の本家筋であった小山氏が小山義政の乱により衰退し、結城基光は下野守護を務め、さらに次男の泰朝が小山氏を継ぐことで、結城氏は勢力の面でも格式の面でも小山氏に伍するようになるなど、関東の有力守護大名として最盛期を迎えた。さらに、結城氏は三代鎌倉公方 足利満兼により宇都宮氏や小山氏、佐竹氏、小田氏、那須氏、千葉氏、長沼氏と並んで「関東八屋形」の一つに列し、屋形号を許されるなど、鎌倉府には「結城の間」なる部屋が創られ、一族の栄誉となっているという。