■サンドプラスト

高圧空気で砂を吹き付け、鉄鋼材の塗装前の清掃処理や コンクリート面を荒らすために行ったり、 石材の仕上げなどに用いられる。 先物取引、秀朝の嫡男、小山朝郷が家督を相続するが、幼少であり、秀朝の自害の際に多くの家臣がともに自害したため、小山氏の勢力は急速に縮小した。それでも北朝方から下野国守護職に任じられ、下野国をはじめとする関東の北朝方として活動した。しかし、関東では北朝方は振るわず、一族の結城宗広らは南朝方であった。建武4年(1337年)、小山城は北畠顕家の率いる奥州の大軍の攻撃を受けて陥落。朝郷は捕らえられた。しかし、南朝方の有力武将で小山氏の分家筋である結城宗広の助命嘆願と北畠顕家の温情によって許された。その後、朝郷の活動の記録はあるものの、南朝方優勢の状態が続き、目立った活躍は見られない。また、同族の結城宗広や結城親朝らからは南朝方に味方するように再三の要請の記録が残っている。しかし、幼少の自分を惣領と認め、下野国守護職に任じた足利尊氏への恩顧の意思は変わらなかった。 FXは、弟と思われる小山氏政が家督を継いた。そのころ、足利氏内部では、足利尊氏と足利直義の兄弟の不和が大きくなり、ついに観応2年(1351年)、観応の擾乱が起こった。氏政もそのなかで直義方の多い関東にあって尊氏に味方した。しかし、小山氏の勢力の衰えがこの時期に如実に現れる。多くの下野国の武士が小山氏ではなく、同じ下野の名族の宇都宮氏の当主宇都宮氏綱に従ったのである。こうして下野国守護職は宇都宮氏に引き継がれた。 FXは勢力の挽回に励んだが、所領は増えたが従う国人は減少するという状態が続き失意の中で死去した。その後を子の小山義政が家督を継ぎ、下野守護職になった。応安元年(1368年)、鎌倉府による新田義宗の討伐に参加するなど活動している。康暦2年(1380年)、義政は、下野国で小山氏と互角の勢力を築き対立していた宇都宮氏の宇都宮基綱と争い、鎌倉公方足利氏満から内戦中止の命令を受けたが、それに従わず河内郡裳原の戦いで基綱を討った。しかし、これは私闘とみなされ、関東地方の治安を任された鎌倉公方足利氏満はこれを放置するわけに行かず、小山氏追討を諸将に命じた。これが小山義政の乱の勃発である。この乱は、独立性の高い伝統的な豪族である小山氏が、氏政以降、所領を拡大して勢力を強めたことが、小山氏の増長を生み、東国に新秩序を構築し支配基盤を確立せんとしていた鎌倉府の方針を軽視することにつながった結果といえる。義政は鎌倉軍に対して徹底抗戦したが、永徳2年(1382年)櫃沢城を落とされた義政は自害して果てた。義政の死後、子の若犬丸(小山隆政)がしばらく抵抗したものの敗れ消息不明となり、隆政の子も芦名氏により捕らえられ鎌倉に留送中に三浦の海に沈められ、平安時代以来の下野国に君臨してきた小山氏宗家は断絶した。 鎌倉公方足利氏満は小山氏を滅ぼしたものの、小山氏の名跡が絶たれることを惜しみ、小山氏と同族の結城基光の子、泰朝をいれて小山氏を継がせた。この時期、小山氏は鎌倉時代以来続いた名門としての権威は失われ、小山氏は結城氏の影響の下で勢力の回復に努めざるをえなかった。小山泰朝の子の小山満泰は応永23年(1416年)の上杉禅秀の乱に結城基光とともに鎌倉公方の持氏に味方して活躍し、応永29年(1422年)から翌年にかけての小栗満重討伐にも出陣している。この時期に「関東八屋形」という概念が生まれ、そのなかには小山氏も含まれた。 小山泰朝の子の氏朝が結城満広の養子に迎えられるなど、小山氏と結城氏とは親密な関係にあったが、満泰の子の小山持政の代になると、小山氏は勢力を盛り返し、結城氏から離れて独自路線をとるようになり、室町幕府と鎌倉府が対立した永享9年(1437年)の永享の乱では足利持氏に味方した結城氏に敵対し、幕府方に味方した。永享の乱で持氏が敗死したが、結城氏朝が持氏の遺児兄弟を擁して永享12年(1440年)に結城城で幕府に対する兵を挙げた(結城合戦)。このとき結城氏が一族の惣領的な地位にいたため一族の多くは結城方として幕府軍と戦った。そのなかで小山氏の持政は幕府軍に味方して活躍した。結城合戦は幕府軍の勝利で結城氏は没落した。合戦後、持政は下野守に任ぜられるなど自立した。嘉吉元年(1441年)に義政以来、久方ぶりに下野守護に復帰し小山氏は宗家断絶後の復興を成し遂げたのである。鎌倉府が絶えると上杉氏の勢力が強大化した。それに対して多くの関東の諸将を持ち、室町幕府に鎌倉府の再興を願った。足利持氏の遺子の足利成氏が赦免されて鎌倉公方として下向した。しかし、新公方成氏と上杉氏がうまくいくはずはなく、享徳3年(1454年)、ついに成氏が側近に命じて関東管領の上杉憲忠を殺害し、関東地方は公方成氏派と管領上杉氏派に分かれて対立し享徳の乱と後に呼ばれる争乱が始まった。この乱では持政は一貫して公方成氏を支持して活動し、享徳4年(1455年)には管領上杉氏派の同国の宇都宮氏と戦っている。公方成氏の信頼を得た持政は目覚しい活躍を見せた。成氏にとって持政は偉大な後見人となっていく。しかし、形勢は幕府が積極的に介入してきたことで、成氏は鎌倉を維持できなくなり、成氏は持政を頼って持政の勢力の強い古河に本拠地を移した。そのため成氏は古河公方と呼ばれるようになる。成氏は、小山氏、結城氏らの支援を得て関東管領上杉方と対峙した。幕府も長禄元年(1457年)に成氏にかえて鎌倉公方として、将軍足利義政の弟の足利政知を関東へ下向させた。しかし、成氏を支持する小山氏、結城氏らの勢力を恐れて鎌倉へは入らず、伊豆国の堀越にとどまった。その結果、成氏は古河公方、政知は堀越公方となった。それらの現状は、上杉氏の勢力と小山氏、結城氏の勢力が均衡を保っていた結果であった。強大な上杉氏に対抗するだけの勢力を有するまでに小山氏をしたのは持政の手腕であった。享徳の乱の間に嫡子の氏郷と嫡孫の虎犬丸を病気で失ったために、持政が老齢にもかかわらず小山氏の当主として成氏を助けて、各地を転戦して上杉方の軍勢との合戦を続けた。長享4年(1460年)、寛正5年(1464年)、文正元年(1466年)と将軍義政から再三にわたって帰順の命令がきた。それでも持政は頑として拒絶し、成氏の支持を続けた。文明3年(1471年)に4度目の帰順の命令が持政にきた。多くの将兵が傷つき、子や孫を失った持政の強靭な精神も一族、重臣の離反の危機などをうけて、ついに持政は幕府の命令に応じた。その後の持政の動向は不明だが、この年の内になくなったものと思われる。事実上、ここの小山氏は絶えた。その後も、名目上の当主は存在したようだが語るべき存在ではなく、歴史の底辺に沈んでいった。持政は最後の小山氏の惣領たる堂々たる武将であった。 一代の英傑、小山持政の後、またも小山氏は嫡流が絶えることとなった。そのため、一族の有力庶家の山川氏から養子のかたちで家名を存続させた。その養子が小山成長である。偉大な英傑の死によって後ろ盾を失った古河公方の足利成氏は文明10年(1478年)に関東管領の上杉氏と和睦し、その後、文明14年(1482年)には幕府とも和睦した。このことによっておおよそ30年間も続いた享徳の乱は一応の終焉を迎えた。しかし、それは新たなる争乱までの僅かな休息に過ぎなかった。 長享元年(1487年)、今度は古河公方を押さえ込み、さらに強大になった上杉氏にほころびが見え始めた。それは上杉一族内部での主導権争いであった。山内上杉氏と扇谷上杉氏という上杉氏内部の有力家が対立し、両家の当主である(山内)上杉顕定と(扇谷)上杉定正との間で争いが生じ、関東はまたもや騒乱の嵐に巻き込まれた。古河公方足利成氏の後を継いだ古河公方足利政氏は当初は扇谷上杉定正を支持した。しかし、その上杉定正が死去すると、姿勢を変えて上杉顕定を支持するようになった。だが、今度は永正3年(1506年)になると古河公方家のなかでも足利政氏とその嫡男の足利高基との父子間でも対立が生じた。父子の対立の原因は、古河公方家の権威と勢力の回復策に対する方針の相違であった。