サンドペーパーを取り付けて、木材・鋼材などの表面を削って平坦とする電動工具。
外為に河内国で楠木正成らが挙兵すると、第9代宇都宮公綱は討伐軍に参加するが、幕府滅亡後に後醍醐天皇の建武の新政がはじまると雑訴決断所を務める。足利尊氏が鎌倉で新政から離反した後も公綱は南朝方として動いたが、子の10代宇都宮氏綱は足利氏に属した。足利家の内紛から発展した観応の擾乱では尊氏方に就いた氏綱が武功を上げ、尊氏の意向で下野・上野・越後国守護職を務め、北関東での支配的地位を磐石なものとした。ところが、尊氏が死ぬと鎌倉公方であった足利基氏(尊氏の子)は自分の腹心でありながら観応の擾乱では尊氏と敵対した前上野・越後守護職上杉憲顕を強引に関東管領に復帰させた上に、上杉憲顕が上野・越後守護職を氏綱から強引に返還させようとして氏綱がこれを拒むと、基氏は関東管領への反抗を理由に氏綱を追討した。宇都宮氏には引き続き下野守護職が残されたものの、鎌倉公方の理不尽な方針に不満を抱かせ、室町幕府直属の京都扶持衆に加わって鎌倉公方に対して抵抗を続けながら勢力挽回を図った。
不動産には戦国大名となり将軍家足利氏の弱体化に伴って関東に台頭した北条氏と対峙した。天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原城攻撃で北条氏が滅亡し、宇都宮氏は下野国18万石の所領を維持した。宇都宮国綱は1592年の朝鮮出兵にも参陣し、帰還後は豊臣姓を賜り従五位下に任じられたが、1597年、突然改易され備前国配流となり、1608年に江戸浅草の石浜で失意のうちに病死する。これにより、22代・500年に亘って繁栄した関東の名門・宇都宮氏は歴史の表舞台から去ることとなった。
改易の理由は、太閤検地の為に派遣された浅野長政に石高不正を訴えられたことや、浅野長政の2男・長重と宇都宮家の養子話のこじれがあった等と言われている。また一方では国綱が関ヶ原合戦で東軍に組するのを拒んだためとも言われている。
FXとして、常陸国守護小田氏や、三河国の出身で江戸時代には徳川家譜代大名として小田原を治めた大久保氏が祖と仰ぐ武茂氏がいる。
宇都宮庶流としては藤原宗円の次子である中原宗房が豊前国仲津郡城井郷に地頭職として赴任したことが豊前宇都宮氏の始まりといわれる。その子、宇都宮信房は豊前守に任じられて九州豊前国に下り、一時期は築城郡の本城城を拠点として、宇佐、筑城、下毛、仲津、田川など各郡に庶家を配し、その子の宇都宮景房は九州平定の功により、景房の子の宇都宮信景は源頼朝から、幕府評定衆、九州四奉行に任じられ、九州の武士を統括したこともあった。豊前宇都宮氏7代宇都宮冬綱(城井冬綱)が城井氏の祖となる。
また宇都宮庶流としては、筑後国に勢威を張った筑後宇都宮氏が知られる。宇都宮氏第8代(宇都宮朝綱を初代とすれば第6代)当主宇都宮貞綱(元寇の時に討伐軍総大将)とともに九州に同行し、筑後国山門郡大木を拠点とした貞綱の弟である宇都宮泰宗の子孫が直接の始祖である。すなわち、泰宗の子の宇都宮貞泰は、南北朝時代に四国伊予国に勢力を保ち、南朝の懐良親王と共に城井氏の拠点の豊前国仲津に移ったが、北朝方の豊前宇都宮氏に対して、南朝方で肥後国八代に移った宇都宮貞泰の次男の宇都宮貞久が始まりとされる。この貞久の孫の宇都宮久憲が筑後十五城筆頭の宇都宮氏系蒲池氏の祖となる。
また、四国伊予国の伊予宇都宮氏は伊予守に任じられた宇都宮豊房が始祖である。豊房は豊前宇都宮氏7代となった宇都宮冬綱(城井冬綱)の弟であった。ちなみに、冬綱は宇都宮氏第9代当主宇都宮公綱の弟である。豊房には子がなく、宇都宮貞泰の四男の宇都宮宗泰が継ぐ。
これらの宇都宮氏は、分かれた後も養子や婚姻により同族としての結びつきを見せている。たとえば下野宇都宮氏第6代の宇都宮貞綱の弟の九州に下り、筑後国山門郡大木城を本拠地とした宇都宮泰宗の子で、九州の豊前仲津にいた宇都宮貞泰の長男の宇都宮義綱の子の宇都宮元綱は、豊前宇都宮・城井氏に入り、貞泰の次男の宇都宮貞久の子の宇都宮懐久は、筑後宇都宮・蒲池氏となり、貞泰の四男の宇都宮宗泰は、伊予宇都宮氏を継いでいる。また懐久の弟の宇都宮資綱の子の宇都宮政長は、祖の宇都宮泰宗の大木城を継ぎ筑後宇都宮・大木氏を名のる。
徳川氏の家臣の三河国の大久保氏も宇都宮氏後裔といい、大久保系図によると、宇都宮貞綱の弟の宇都宮泰宗(武茂泰宗)の子の宇都宮時景の子の宇都宮泰藤を祖とするという。孫の道意の時に宇津を名のり、その五代後の宇津忠俊が大久保氏の祖とされる。『藩翰譜』によると宇都宮泰藤は南朝方で、新田義貞が討たれた時、越前国を落ち三河国大久保に住んだことにはじまるというが、三河土着の大久保氏は宇津宮氏と伝え、宇都宮氏とは同音だが別とされる。
宇津宮とは、四国の伊予国喜多郡宇津に住んでいた人物で、桓武天皇の第3皇子の伊予親王で、宇津宮氏とは伊予親王の子孫と称する一族で、伊予の越智氏や伊予橘氏、河野氏などが知られる。
以下は宇都宮氏の傍系。宗円の子の八田宗綱の係累の八田一族の家々であるが、八田宗綱の嫡子の宇都宮朝綱(八田朝綱)を祖とする宗族である宇都宮氏からは分離したともいえる勢力を築いた家である。よって、上記の庶家とは分けて記す。この八田一族からは、主に常陸国、肥前国の小田氏や安芸国の宍戸氏などが輩出する。
秀郷流の系統。藤姓足利氏(源姓の足利氏とは別)の庶流。足利有綱(俊綱の弟)の子で下野国安蘇郡佐野庄に土着した佐野基綱より始まる。
本宗である藤姓足利氏当主足利忠綱が志田義広と手を組んだのに対し、基綱は早くから源頼朝に味方したため、頼朝によって藤姓足利氏の嫡流が滅亡したのちも、鎌倉幕府の御家人として勢力を維持した。承久3年(1222年)に発生した承久の乱での戦功で淡路国に所領を得るが、宝治元年(1247年)の宝治合戦では三浦氏に与し、本領以外は没収され一時没落した。
鎌倉幕府の滅亡後は足利氏に属し、室町時代を通して鎌倉公方、古河公方に仕え活躍した。戦国時代になると、古河公方の足利義氏が後北条氏に軟禁されるなど衰退したため、佐野氏も後北条氏の影響下におかれるようになり、そのため後北条氏と敵対する関東管領上杉謙信の侵略にたびたびさらされるようになった。それでも佐野豊綱・佐野宗綱の代には一定の独立した勢力を保っていたが、宗綱の戦死後、後北条氏から養子(佐野氏忠)を迎えその傘下となる。そのため小田原の役において滅亡の危機を迎えたが、佐野房綱(了伯)が豊臣秀吉に味方し活躍したため存続を許された。
しかし、江戸時代初期の当主佐野信吉に不行跡があったため江戸幕府を開いた徳川氏により改易処分となり、大名としての佐野氏は終焉した。子孫は旗本として存続した。天保4年(1784年)に江戸城中で時の老中田沼意次の子息、若年寄田沼意知に斬りつけて殺害した旗本佐野政言も子孫の一人である。
流派は藤原秀郷流と称する。平安時代後期に武蔵国に本領を有した太田氏が下野国小山庄を領し、政光が1150年頃にはじめて小山に移住して小山氏を名乗った。その後妻に八田宗綱の女を迎え頼朝の乳母となったことが結果的に鎌倉時代の小山氏隆盛の礎となった。
地方豪族であった小山氏は歴史上に大した足跡は残していない。平安時代末期の治承4年(1180年)の源頼朝による反平家の挙兵に大番役で在京中の当主の小山政光の三男、朝光が馳せ参じている。朝光は頼朝とは乳兄弟にあたり(頼朝の乳母は、八田宗綱の女で朝光の実母の寒河尼であり、政光の後妻)、特に頼朝の信頼は厚かったという。また、弟には遅れたものの政光の長男小山朝政・二男宗政も頼朝陣営に参陣している。寿永2年(1183年)には、常陸国の源頼朝の叔父にあたる志太義広が乱を起こすと、それを野木宮合戦で鎮圧する活躍をみせ、その後の平氏追討戦、文治5年(1189年)の奥州合戦にも小山氏の兄弟は参陣し武功をあげた。
政光のあとは長男朝政が継いだ。弟の宗政が長沼氏、朝光が結城氏を名乗るなど、小山の三人兄弟はそれぞれに独立した勢力となる。小山氏は嫡流で結城家、長沼家などは庶流として下野国南部地区の一勢力となった。正治元年(1199年)には播磨守護職に任じられるなど、鎌倉幕府内でも重用されていた。
元弘元年(1331年)、後醍醐天皇が笠置山で討幕の挙兵をした。それに対して鎌倉幕府は大軍を動員し上洛させた。そのなかに、小山氏の当主の子、小山秀朝も参加していた。しかし元弘3年(1333年)、新田義貞の討幕の挙兵に際しては寝返って討幕派となり、義貞に従って鎌倉攻撃に参加し立場を安堵した。建武の新政が始まると、秀朝は下野国守護職と下野国国司を兼任することを認められ、小山氏の持つ平安時代以来の権益を認められた。建武2年(1335年)、北条時行の中先代の乱が起きると秀朝は足利直義の命令で武蔵国に出陣したが、北条時行軍と戦って敗れ秀朝は自害して果てた。