窓枠と窓枢の総称。スチール製、アルミニウム製のものが多い。
整体師に秩父重綱の四男重継が武蔵国江戸郷を相続し、「江戸四郎」を称したのが始まりとされる。重継は現在の皇居の本丸、二の丸周辺の台地城に居館を構えたという。
江戸氏は1180年に源頼朝が挙兵した時、すでに武蔵国内の最有力の武家の一角となっていた。重継の子重長は初め頼朝と対立して頼朝方の三浦氏を伐ったが、後に和解して鎌倉幕府の御家人となった。
弘長元年10月3日(1261年)、江戸氏の一族の一人であった地頭江戸長重が正嘉の飢饉による荒廃で経営が出来なくなった江戸郷前島村(現在の東京駅周辺)を北条氏得宗家に寄進してその被官となり、1315年までに得宗家から円覚寺に再寄進されている事が記録として残されている。
鎌倉幕府が滅びると、江戸氏は南北朝の騒乱において初め新田義貞に従って南朝方につき、後に北朝に帰順して鎌倉公方に仕えた。長門・高良らは畠山国清の命により矢口渡で新田義興謀殺に加わった。その後、武蔵平一揆で敗退するなどして衰退した。
その後、庶流といわれる喜多見氏が世田谷吉良氏に仕える。やがて、主家世田谷吉良氏やさらにその主家である後北条氏が豊臣秀吉に攻められると没落した。喜多見勝忠が江戸に入府した徳川家康に仕え、世田谷喜多見に所領を与えられる。喜多見重政は将軍綱吉の寵臣として大名に列するようになり、喜多見藩を立藩する。しかし、元禄2年(1689年)2月2日に突然連座失脚し、所領を没収されて大名である喜多見氏は滅びた。
粗大ごみの居館跡はのちに、長禄元年(1457年)太田道灌が江戸に封じられた後江戸城として整備された。太田氏の江戸城はやがて北条氏の支配下に置かれる。その後徳川家康が本拠地を置き、徳川幕府が代々整備し、維新後は宮城となり現在の皇居となった。
常陸の江戸氏の前身である那珂氏は平安時代末期に那珂郡に本拠地を置き、常陸の豪族として栄えた。しかし、南北朝時代になると、宮方につき、一族の殆どが没落する。しかし、那珂氏の一族である那珂通泰は武家方につき、那珂郡江戸郷を封ぜられ、子の通高の代に江戸氏を称するようになる。通高は守護佐竹義篤(佐竹氏第九代当主)の娘を娶り、度々軍功をあげた。通景は本拠地を河和田(現水戸市内)に移す。その子通房の代には上杉禅秀の乱が勃発し、鎌倉公方足利持氏についた通房は、禅秀方に味方して共に没落した大掾氏の一族の馬場氏の拠点である馬場城(後の水戸城)の近辺に所領を得た。大掾満幹はその後も馬場城を保持し続けたが、応永33年(1426年)に馬場城を留守にした隙に、通房に馬場城を攻め落とされた。以降江戸氏は馬場城(水戸城)を本拠地として那珂川中下流部で勢力を振るう。その後、守護佐竹氏の内部で山入の乱と呼ばれる内訌が発生すると積極的に介入し、佐竹領にも進出するようになる。戦国時代に入り、佐竹義舜が山入氏を滅ぼすことにより佐竹氏の内訌が収まり、それとともに江戸氏の北進は止まる。江戸通泰は佐竹氏に臣従の姿勢を見せたものの、独自の勢力を保ち、古河公方家の家督争いなどで混乱が続く常陸西部及び南部に進出する。江戸忠通・通政・重通は佐竹義重と同盟を結び、佐竹氏は南奥に、江戸氏は常陸南部にそれぞれ積極的に進出する。重通は府中に拠点を置く大掾氏を激しく攻めたてた。
不用品回収の役がおこり、豊臣秀吉は小田原城を包囲し、関東、東北地方の諸氏に参陣を命じた。佐竹氏は後北条氏と対立し、秀吉と結びついていたことから参陣したが、後北条氏と結んでいた江戸氏は参陣しなかった。秀吉は佐竹義重に常陸21万貫の所領安堵状を発給する。これを楯に佐竹義重は一気に南下、水戸城を落とす。重通は妻の兄である結城晴朝のもとに逃走する。これにより江戸氏は滅亡した。子孫は結城秀康に仕えたという。
藤原道長の六男・藤原長家の孫藤原資家を祖とし、元は須藤氏を称していたが、那須資隆(太郎)の時、那須氏を称したとされる。一般には屋島の戦いで扇の的を射落とした那須与一で知られるが、吾妻鏡によって明確に存在が確認されるのは鎌倉時代初期の那須光資からであり、与一の存在も含めそれ以前の系図や事跡、伝承には疑わしい部分も多い。
鎌倉幕府成立後は御家人となり、室町時代には最盛期を迎え、結城氏や佐竹氏と並んで、『関東八屋形』のひとつに数えられた。しかし15世紀前半に上那須家と下那須家の二つに分裂して衰退。永正11年(1514年)、上那須家が内紛により滅亡し、下那須家の那須資房が那須氏を統一するが、その後は宇都宮氏や佐竹氏との抗争に明け暮れる。天正18年(1590年)、那須資晴が豊臣秀吉の小田原征伐に遅参したため所領を没収されたが家臣・大田原晴清の陳謝で資晴の子・那須資景に五千石を宛てがわれ、かろうじて改易は免れた。
関ヶ原の戦いでは東軍に属し、江戸時代には下野那須藩1万4千石の大名となる。3代藩主那須資祗の時、2万石に加増され同国烏山藩に転封。しかしその養子那須資徳がお家騒動(幕法違反)により改易され、以後千石の交代寄合として明治維新まで存続した。なお、この那須氏の末裔(直系に当たる)が昭和初期に起きた弘前大教授夫人殺人事件の被告人となったが、裁判により冤罪とされている。
藤原氏一族の藤原北家の藤原道兼の曾孫を称する[1]藤原宗円が、源頼義、義家の奥州安倍氏討伐(前九年の役)での功により宇都宮(現・栃木県宇都宮市二荒山神社の別称)別当職に任じられ、宗円の孫の宇都宮朝綱から苗字(名字)として宇都宮氏を名のる。しかし『宇都宮市史』や『姓氏家系大辞典』では、宗円を藤原道兼の子孫とするのは後世の仮冒で、宇都宮氏は中原氏の出、あるいは古代の毛野氏の後裔と想定している。ただし現在の通説では、藤原宗円の子の中原宗房の中原姓とは宗房の母方の姓で、母方の中原氏が藤原宗円の子種を育てたということであり、毛野氏説についても、毛野氏の女が藤原氏の子種を産んだとされ、中原宗房は、母方の中原の家を継いだことから家系上は中原氏だが、藤原宗円の子ということで血筋(男子血統)は藤原氏とされている。[要出典]
宇都宮氏は下野国が本貫であったため、各地の庶流に対してしばしば下野宇都宮氏といわれることもある。下野国一之宮名神大社であった宇都宮二荒山神社座主および日光山別当職等を務め、紀清両党を率い22代・500年に亘って下野国、さらには日本国土の治安維持を司った名家。国司や守護も歴任し、現在では戦国大名とも評されている。
源頼朝をして「関東一の弓取り」と言わしめた宇都宮朝綱は第3代宇都宮氏当主である。また第5代宇都宮頼綱(藤原頼綱)は武人で奥州藤原氏討伐にも功績があったが、鎌倉幕府から謀反の嫌疑をかけられたのを機に法然に帰依して出家、実信房蓮生と号して京に隠棲して宇都宮歌壇を確立した。京都嵯峨野の小倉山麓の庵に住まい、その襖色紙には親交があった藤原定家によって選じられた首歌が書かれ、これが小倉百人一首の起源として伝統文化に受け継がれている。浄土宗を信仰した頼綱は、京常盤、桐生、宇都宮に念仏堂を建立し、現在もそれぞれ入逢山西方寺、梅田山西方寺、芳宮山清巌寺に受け継がれている。頼綱は幕府から許された後の1215年には園城寺(現在の三井寺)再建に尽力し、その功によって伊予国守護に任じられた(1220年頃〜1235年頃)。
鎌倉時代中期、第8代宇都宮貞綱は元寇の際、鎌倉幕府による討伐軍の総大将として九州に赴き、これに勝利すると鎌倉幕府引付衆に任じられた。貞綱は亡母の13回忌に全国的にも珍しい巨大鉄製塔婆を奉納した(宇都宮市清巌寺蔵:国の重要文化財)と言われている。