■簓桁

階段を支える中げたのこと。 上端が階段に沿ってギザギザに刻んであるのでこの名がある。 used trucks for saleになると、佐竹氏第15代当主で「中興の祖」と呼ばれた佐竹義舜が現れ、山入氏を討ち、常陸北部の制圧に成功した。しかし、相変わらず江戸氏は不穏な動きを続け、また関東の制覇を目指す北条氏の侵攻などもあって、常陸統一は非常に困難な状況にあった。 佐竹義舜の曾孫で、佐竹氏第18代当主の佐竹義重は「鬼義重」の異名をとる名将であった。義重の時代に、佐竹氏は江戸氏や小田氏などを次々と破り、常陸の大半を支配下に置くことに成功し、佐竹氏を戦国大名として飛躍させた。北条氏とは天正12年(1584年)に沼尻(現在の栃木県下都賀郡藤岡町)で対決した(沼尻の合戦)。また、奥州南部にも進出し、白河結城氏を下し、石川氏、岩城氏などを影響下に置き、三春城の田村氏と対抗する中で奥州国人の盟主たる地位を確立しつつあった。このため、義重の正室の甥にあたる伊達政宗と対立し、義重は蘆名氏や二階堂氏、岩城氏らと同盟を結んで、奥州覇権を狙う政宗と天正13年(1585年)人取橋(現在の福島県本宮市)で対決した(人取橋の戦い)。佐竹方は3万の大軍を率い、伊達方の10倍近い兵力を以ってこれを攻め、伊達方に多大な被害を与えたが、一夜にして撤退を余儀なくされ、結果として伊達方の奥州覇権を強める契機となる。 used truck for saleは戦国時代を通じて領国を拡大し、子の佐竹義宣の時代には豊臣秀吉の小田原の役に参陣して、秀吉の太閤検地の結果、常陸54万5800石の大名として認められた(ただし、常陸国内でも土浦城、下館城一帯は結城氏の所領とされた)。水戸城の江戸重通は小田原の役に参陣しなかったために所領を没収され、佐竹氏は居城を太田城から水戸城に移した。 慶長5年(1600年)、佐竹義宣は関ヶ原の戦いにおいて家中での意見がまとまらずに中立的な態度を取った。戦後処理は翌年にはほぼ終了し、慶長7年(1602年)の3月には義宣は上洛し伏見城で徳川家康に拝謁している。ところが、5月になると義宣は出羽国久保田(現在の秋田県秋田市)20万5800石(実高40万石)に減封の上で国替えを命じられる。関ヶ原の戦いにおいて、家康を追撃する密約を上杉景勝と結んでいたことが発覚したためと言われている。こうして佐竹氏は平安時代後期以来の先祖伝来の地である常陸を去った。 江戸時代を通じて久保田藩を支配する外様大名として存続した。元禄14年(1701年)に佐竹氏第21代当主で久保田藩第3代藩主の佐竹義処は弟の佐竹義長に2万石を、甥の佐竹義都に1万石を分与し、久保田新田藩として立藩させた(新田分知のため久保田藩の石高に変化はなし)。そのうち、佐竹義都を初代藩主とする久保田新田藩は、享保17年(1732年)に義都の子の佐竹義堅が久保田藩第5代藩主の佐竹義峯の嗣子となったために廃藩となり、封地は久保田藩に還付された。一方、佐竹義長を初代藩主とする久保田新田藩は、歴代藩主が壱岐守に叙せられたので佐竹壱岐守家とも呼ばれ、明治2年(1869年)に岩崎藩と改称した。 used trucks、佐竹氏第30代、第32代当主で旧久保田藩主の佐竹義堯は侯爵に、佐竹壱岐守家(旧久保田新田藩)の当主の佐竹義理は子爵に叙せられ、明治22年(1889年)には佐竹壱岐守家の出身で義堯の養子となり一時的に宗家を相続した佐竹義脩が男爵に叙せられた。なお、家臣であった佐竹四家(東西南北家)に関しては、明治33年(1900年)に佐竹西家の佐竹義遵、佐竹南家の佐竹義雄、および佐竹北家の佐竹義尚が、明治39年(1906年)に佐竹東家の佐竹義準がいずれも男爵に叙せられた。東洋製作所の元社長の佐竹義利は佐竹東家の出身であり、現在の秋田市長の佐竹敬久は佐竹北家の出身である。 なお、佐竹氏宗家(旧久保田藩主)が伯爵ではなく侯爵とされたのは戊辰戦争において新政府軍に加わったためとする説があるが、実際のところは久保田藩の石高が表高に対して実高が多かったためである。 道智頼基の子・光基を祖し、元は武蔵国埼玉郡騎西庄多賀谷郷の地頭職であった。1190年(建久元年)11月7日、源頼朝上洛の際の先陣の髄兵の中に多賀谷小三郎の名があり、『吾妻鏡』にも多賀谷の名が散見される。 氏家の代に常陸国下妻へ移住。結城氏に臣従し、1440年(永享12年)に勃発した結城合戦では、氏家は落城寸前の結城城から結城氏朝の末子・七郎(後の結城成朝)を抱いて脱出して佐竹氏を頼り、後年、結城家の再興に尽くした。 1454年(享徳3年)の享徳の乱では、古河公方足利成氏の命により関東管領上杉憲忠を襲撃。憲忠の首級をあげ、その功により下妻三十三郷を与えられた。 その後、結城氏からの自立を図り、佐竹氏との同盟を強め、反北条氏の立場を鮮明にしてゆく。 used truckに最盛期を迎え、領地を20万石にまで拡大。1590年(天正18年)の小田原の陣に参戦して豊臣秀吉から領土を安堵されたが、文禄の役では病気と称し参加しなかったため、領地の一部を没収された。 1600年(慶長5年)の関ヶ原の合戦においては、家康の再三の出陣要請にも応じず、会津征伐に向かう徳川家康の小山本陣へ夜襲をかけようとした事が露見し、改易された。重経は流浪の末、死去する。佐竹氏から重経の養子となった宣家は、戦後、佐竹氏に戻り、兄佐竹義宣の秋田転封に従い檜山城主となり、その後、出羽亀田藩の藩主を継いた。一方、重経の実子・三経は結城秀康(松平秀康)の家臣となり、秀康の越前転封に従って越前松平氏の有力家臣となって、越前丸岡・三国で3万2千石を領した。三家の一族は元和2年(1616年)三経の子・泰経の死によって断絶したとされるが、血統は相続し、その子孫は松平氏の上野前橋藩転封に従い、そこで明治維新を迎えた。 また、その支族が鎌倉時代の承久の乱の後に伊予国周敷郡北条郷へ移住。さらに南北朝時代に南朝に追われて、安芸国の蒲刈島および倉橋島に移り住み、それぞれ蒲刈多賀谷氏・倉橋多賀谷氏が成立、戦国期に大内氏に属する水軍として活躍している。 小田氏は鎌倉時代、源頼朝に従って功績を挙げ、常陸守護に任じられた八田知家(八田太郎、宇都宮宗綱の子)を祖としたという。知家の子の八田知重(尊卑分脈では「八田五郎」、宍戸系図では八田太郎)が小田を名のる。 南北朝時代には南朝方の一翼として活動し、室町時代には鎌倉府により関東八屋形に列せられ、関東の支配体制の一翼を担った名家であった。しかしその後は佐竹氏ら周辺の諸氏に圧迫され、戦国時代に入ると、小田氏の力は大きく衰退し、常陸の南部をかろうじて支配する小大名にまで成り下がっていた。16世紀前半、名君・小田政治が現われて結城氏や古河公方などと争い、所領を一時拡大し、最盛期を迎えたが、政治の子・小田氏治は北から佐竹氏、南から後北条氏という二大勢力に領土を侵食され、上杉謙信や佐竹義重などに時に臣従し、時に翻弄されながら、領土の侵食・奪還を繰り返していた。地元民には慕われていたらしく、幾度領土を追われても、その都度地元民が支援してくれるために、毎度すぐに旧領復帰を成せていたらしい。 1569年、氏治は佐竹氏の侵攻を受けて居城・小田城を失い、1583年には佐竹氏に完全に臣従した。そして1590年、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣ぜずに所領奪還の戦を行っていたことを理由に所領は没収され、結城氏と佐竹氏に分割されてしまう。氏治は秀吉に臣従を願うが叶えられず、その後は娘が側室となっていた結城秀康の客分となり、嫡男(次男)守治とともに越前へ下向したという。人質として北条氏に仕えていた庶長子友治は小田原落城後、秀吉に仕え、先祖の「八田」姓に改称し、朝鮮出兵などで活躍するが、豊臣秀次改易に連座して改易。その後はやはり結城秀康を頼ったとされる。その子義治は豊臣秀頼に仕え、大坂の陣にも参戦した後、福島正則に客将として招かれたが、正則所領の広島にて死去した。 小田直光が九州肥前国に移り、肥前の小田氏の祖となり、この一族は肥前国蓮池城(はすのいけじょう)主を拠点とした。少弐氏の家臣となるが、主家の衰退と運命をともにし、小田政光は、龍造寺隆信に降伏したものの、のちに調略により死地に追いやられ、子達も隆信に暗殺され滅亡した。多久龍造寺家の龍造寺長信の妻が政光の息女であったため、肥前小田氏は多久家の縁者により継承された。