コンクリートパネル。コンクリート打ち込みの際に使用する、平板状大型型枠。
くりっく365の七男・佐原義連を初代とするが、蘆名姓を名乗るのは、義連の孫に当たる光盛の代になってからである(異説あり)。 室町時代には京都扶持衆として、自らを「会津守護」と称していた。
戦国時代に英主・蘆名盛氏が現われ最盛期を迎えた。これにより、奥州で伊達氏と並び称される奥州を代表する有力大名にまでのし上がったのである。
しかし、蘆名氏は一族猪苗代氏をはじめとする家臣の統制に苦慮し、さらに盛氏の晩年には後継者問題も発生した。そのため1580年、盛氏の死とともに蘆名氏は次第に衰え始める。
日経225、二階堂氏からの人質の二階堂盛義の子が婿養子として後を継いだ。蘆名盛隆である。周辺諸氏と友好を保ち伊達氏に対抗したり、織田信長に使者を送るなど積極的な政策を打ち出すが、家中の統制には苦慮している。1584年に近従の大庭三左衛門に暗殺され、その後を継いだ盛隆の遺児亀若丸(亀王丸)も1586年に3歳で夭逝。そして家臣団が揉めに揉めた末、佐竹義重の子・蘆名義広を蘆名家当主に迎えた。盛氏の死から10年を経ずして3人もの当主が入れ替わったことは、蘆名氏の衰微を象徴するものであった。
1589年、奥州統一を目指す伊達政宗に摺上原の戦いで大敗した蘆名義広は常陸に逃走し、ここに蘆名氏は没落する。実家の佐竹氏に戻った義広は名を「蘆名盛重」と改めて、常陸江戸崎城主となる(江戸崎藩)が、関ヶ原の戦いの際には、旗幟を鮮明にしなかった実兄・佐竹義宣と行動を共にしたために改易、次いで佐竹家臣として出羽角館城に1万6000石を与えられたものの、盛重の死後、息子が相次いで病死、最後の当主蘆名千鶴丸も3歳で事故死したために家系は断絶して蘆名氏は名実ともに滅亡した。
CFDであった針生氏は蘆名家滅亡後に伊達氏に仕え、この系統は延宝4年(1676年)に仙台藩主・伊達綱村の命により蘆名に改姓した。
陸奥国二本松城に拠った戦国大名である。 本姓は源氏。家系は清和源氏の一流 河内源氏の名門足利氏の支流にあたる。室町幕府を開いた足利将軍家の下で三管領の座を占めた畠山氏宗家とは同族であるが別系統であり、本来の血筋では二本松畠山氏が嫡流にあたるとされる。
二本松氏は本来二本松畠山氏を称しており、文書等では畠山と二本松両姓がしばしば併用されるが、義継までは畠山氏が正確であった。しかし滅亡後、二本松義孝の代に完全に二本松氏となったため、本稿の項目は二本松氏とし、その系譜については二本松畠山氏と二本松氏の時代を区分して概説する。
二本松畠山氏は奥州管領であった畠山高国・畠山国氏以来の名族である。貞和6年(1345年)畠山高国と吉良貞家が奥州管領に任ぜられて陸奥国に入った。しかし、観応の擾乱が勃発すると、直義派の吉良貞家に尊氏派の高国・国氏父子が攻められて敗死する。高国・国氏の子孫は二本松に逃れ、奥州管領を自称して挽回を図り、南朝方の北畠顕信と手を組んで一時国府を奪回するも、吉良貞家の反撃で再び奪われる。劣勢を挽回できないまま、石塔氏も奥州管領を自称し、中央から派遣された斯波家兼と4人の奥州管領が抗争することになった。結局斯波氏が勝利したが、畠山氏は高い家格をもって遇された。しかし、現実には一国人レベルまで零落していた。
戦国時代に入っても、周囲の伊達氏や蘆名氏などの有力国人に圧迫され、さらに凡庸な当主が相次いだために衰退していった。天文16年(1547年)、二本松畠山氏十四代を継いだ二本松義国の頃には、古記録によれば『二本松畠山家、次第に衰微して、ようやく安達半郡、安積半郡を知行せられ、この節、会津の蘆名盛氏の武威輝かしかば、彼の風下にぞ属せられける』と言われるほどになっていた。
そして天正13年(1585年)10月、義国の子・二本松義継は有名な伊達輝宗拉致事件(粟之巣の変事)を起こし、それにより伊達政宗に殺され、人取橋の戦いの後、二本松城は陥落する。蘆名氏を頼った息子の義綱も同氏が伊達政宗に滅ぼされた際、常陸国に逃亡する蘆名義広に足手まといとして殺害され、ここに二本松畠山氏は滅亡した。
陸奥国の岩瀬郡を支配した戦国大名。須賀川城を居城とした。
二階堂氏は藤原姓で、南家藤原武智麻呂の子孫を称している。工藤行政が源頼朝に仕え、二階堂が存在した鎌倉の永福寺周辺に屋敷を構えたので二階堂氏を称したという。行政には行光と行村の二人の子がいた。二階堂氏の子孫は実務官僚として鎌倉幕府、室町幕府に仕え、その所領は日本全国に散在しており、多くの庶子家を輩出した。須賀川二階堂氏の詳しい系譜は明らかではない。
文安元年(1444年)頃、鎌倉から二階堂為氏が須賀川に下向し、命令に従わなくなった須賀川代官二階堂治部太輔を討ち、須賀川城に入ったという。この為氏が須賀川二階堂氏の初代当主ともいわれている。
天文11年(1542年)に勃発した天文の乱と呼ばれる伊達氏の内訌に端を発した大乱では、伊達稙宗の娘婿二階堂照行は稙宗方となっている。
永禄年間(1558年〜1570年)になると、度々蘆名氏に攻められ、二階堂盛義は息子を人質として送り講和した。
盛義の死後当主となった二階堂行親は夭折し、その跡は盛義の未亡人であり、伊達政宗の伯母にあたる阿南の方(大乗院)が継いでいた。そのため政宗も幾度となく降伏を薦めたが、阿南の方はこれを頑強に拒否。天正17年(1589年)10月26日政宗に攻められて、須賀川城は落城した。
なお、薩摩国の戦国時代の有力国人で後に島津氏家臣となった二階堂氏は、この一族の一部が鎌倉時代末期に所領の一部のあった薩摩国阿多郡(現鹿児島県南さつま市)に下向以後土着した流れで、後にこの系統から二階堂進を輩出している。
佐竹氏は逸見氏、武田氏、小笠原氏、南部氏などと同じく源頼義の子で源義家の弟の源義光の子孫である。佐竹氏の初代当主については、義光の子の源義業とする説と、義業の子の源昌義とする説があるが、昌義が常陸国久慈郡佐竹郷(現在の茨城県常陸太田市)に住み地名にちなんで「佐竹」を名乗ったことから昌義を初代当主とする説が一般的である。なお、家名については、常陸太田市にある佐竹寺で昌義が節が1つしかない竹を見つけ、これを瑞兆とし、佐竹氏を称したという話が伝わっている。
平安時代の後期には、佐竹氏は既に奥七郡と呼ばれる多珂郡・久慈東郡・久慈西郡・佐都東郡・佐都西郡・那珂東郡・那珂西郡など常陸北部七郡を支配し、常陸に強い勢力を持つ大掾氏との姻戚関係をもとに強い勢力基盤を築いていた。また、中央では伊勢平氏と、東国では奥州藤原氏と結び、常陸南部にも積極的に介入するなど常陸の有力な豪族としての地位を確立していた。
治承・寿永の乱においては、佐竹氏は清和源氏の一族にもかかわらず平家に与したために源頼朝によって所領を没収された。後に頼朝に従って奥州合戦に加わった。その際に無地の白旗を持参したところ、頼朝の旗と等しかったことから紛らわしいとの理由で、白旗に扇を旗の上に付けるよう命じられた。この扇は月を描いており、以後、佐竹氏は家紋として「扇に月」(一般的には日の丸扇と呼ばれている)を用いることになる。
鎌倉時代においては、奥七郡への支配権は宇佐見氏、伊賀氏、二階堂氏など奪われ、後に北条氏などがそれらの郡の地頭職を獲得し、佐竹氏は不遇の時代を過ごすことになる。
室町時代になると、佐竹氏は早々と足利氏に呼応したことから守護職に任ぜられたものの、鎌倉公方を主君としたことで足利将軍家と鎌倉公方の争いに巻き込まれることも少なくなかった。佐竹氏は鎌倉府の重鎮として活躍し、第3代鎌倉公方の足利満兼より関東の8つの有力武家に屋形号が与えられ関東八屋形の格式が制定されると、佐竹氏もこのひとつに列せられ、以後、佐竹氏の当主は「お屋形さま」の尊称を以って称された。
しかし、佐竹氏宗家の第11代当主の佐竹義盛に男子がなかったことから、藤原北家の勧修寺流の流れをくむ関東管領の上杉氏より佐竹義人が婿養子に迎えられて第12代当主となると、佐竹氏の庶家で佐竹の男系の血筋を引く山入氏はこれに反発し、宗家に反旗を翻すこととなった。山入氏が室町幕府と結んで佐竹宗家の常陸守護職を奪い山入の乱(山入一揆)を起こし、さらには、名目上傘下にあったものの実際には独立勢力であった大掾氏や那珂氏(後の江戸氏)の存在などもあったため、佐竹氏の勢力基盤は脆弱であった。こうした内紛もあり、戦国時代に突入した後も佐竹氏の常陸統一は困難を極め、戦国大名化も遅れた。
その後、二本松畠山氏は戦国武将の客分としてその命脈を伝えた。二本松義綱の弟義孝の代に至って姓を二本松として以後、二本松姓が正式となる。義孝ははじめ杉氏・蒲生氏郷・加藤嘉明ら戦国武将の客分となり庇護を受け、やがて徳川氏譜代の水野氏の客分となった。以後、水野氏の転封に伴い、諸国を転々とし、水野氏が出羽国山形藩に封ぜられたのに伴い、今日まで同地で存続する。