■ゴンドラ

枠組みしてある作業台をワイヤロープで屋上から吊り、 上げ下げして作業する移動吊り足場で、 ビルの外壁工事や清掃などに用いる。 外為、愛姫の遺言により伊達忠宗の三男宗良が1652年岩沼3万石を分知され、田村宗良を名乗って田村氏が再興される。後に一関に移り一関藩となった。この近世大名田村氏は伊達62万石の内に3万石の領地を分与された内分分家大名であったが、幕府に対して直接公役を果たし、譜代大名格となる。なかでも一関初代藩主(近世大名田村氏としては二代)田村建顕は、奏者番として江戸城に出仕し、浅野長矩の刃傷事件に際してその身を預かり、邸内で切腹させたことでも有名である。再興された田村氏は幕末まで一関を領し、明治以後は華族令によって子爵に列せられた。 源義家(八幡太郎義家)の六男の源義時を祖とする石川氏。他氏との混同を避けるために石川源氏と呼ぶことの方が多い。 源平合戦の際に同じ源氏で平家方の源季貞に攻められて大敗を喫し、一族の多くを失ったが、源氏が平家を倒すと、勢力を回復し河内国南部(現在の大阪府河内長野市)に勢力を拡大した。 日経225には南河内の一大勢力となったが、しかし、鎌倉幕府が衰え、河内国南部に楠木正成に代表される伊予橘氏(越智氏)などの系統の在地豪族が台頭すると、それに圧倒されて勢力を失い、一族の多くは故郷を離れて各地に離散したが、楠木正成の配下になり河内に残った一族も少なくない。 戦国期の摂津国の中川氏(中川清秀など)は、この石川氏の系統だとされる(親族の多田源氏の系統の説もある)。 戦国時代後期に石川数正を輩出した三河の石川氏は、義時の子孫のうち、一時下野の小山氏を頼っていた一族が、蓮如に随行して三河に流れ着き、定住したのがはじまりという。松平氏(徳川氏)に仕え、代々筆頭家老を務めた。柳営秘鑑にある徳川最古参の安祥譜代7家の1家であり、三河の浄土真宗門徒の総代でもあったという。 冒頭の数正は徳川家康に仕え活躍したが、やがて羽柴秀吉の下に出奔しその家臣となり大名となった。しかし、子孫は秀吉の死後江戸幕府を開いた家康に冷遇されまもなく改易処分となった。江戸時代に譜代大名として隆盛した石川氏の系統は数正の叔父の家成の系統である。 もっとも三春藩には在郷給人とは別に、より上位の階層に位置し、多額の献金によって藩財政への貢献がとくに高いものが列せられた「郷士」も存在した。在郷給人が給地支給で準士分(下士の一段下の階層としての扱い)であるのに対して、知行を与えられ徒士並(下士としての扱い)として遇された。 FXから旧田村家中の子孫は、士分的な意識を持ち続けることが多かった(ただし、在郷給人や郷士であっても家中とは厳然とした身分差・待遇差があったことを付記しておく)。 なお、三春藩の在郷給人や郷士は、明治初期の版籍奉還を前に藩が制度を廃止したため、 これらの待遇を受けていた土着した旧田村家中の子孫は士族とはならず、平民籍となった。 陸奥国南部の白河地方を支配した戦国大名で、鎌倉時代から安土桃山時代まで続いた。下総国の結城氏の庶流にあたり、宗家と区別するため白河氏(白川氏)とも呼ばれる。搦目城(白川城)を居城とした。白河結城氏の衰退とともに搦目城は廃城になり、小峰城が白河結城氏の本拠地となった。(搦目城は1510年の永正の変または1575年の天正の変の際に廃城になったと言われているが、正確な時期は不明) 鎌倉時代に結城氏の祖小山朝光が得た白河庄に、孫の結城祐広が移り住んだのが、白河結城氏のはじまりとされる。 後醍醐天皇が鎌倉幕府に対して挙兵すると、結城宗広が新田義貞の鎌倉攻めに参加し、後に後醍醐天皇より下総結城氏に代わって結城氏の惣領と認められた。建武の新政においては宗広の子の結城親光が三木一草と称される有力武士の1人となり、親光の兄の結城親朝は奥州府の式評定衆として陸奥守北畠顕家と北畠親房父子を補佐した。 やがて、足利尊氏が建武政権から離反して南北朝時代に突入すると、宗広親子は南朝方に属した。親光は尊氏が九州から入京を果たした際に尊氏暗殺を試みて失敗して殺され、宗広は北畠親子に従い、親朝は白河に戻って勢力を拡大して伊達氏をも凌ぐ奥州随一の勢力にまで成長させた。だが、次第に足利方の反撃が強くなると南朝側とは距離を置き、常陸国(茨城県)へ渡り関東地方における南朝勢力を確保しようとした北畠親房が救援要請(『神皇正統記』は親朝に宛てて執筆されたという説がある)をに従わず、1342年に足利方に転じた。 その後、戦国時代に入ると、内紛が絶えず発生し、さらに佐竹氏や那須氏の侵攻を受けたため、衰退の一途をたどった。1590年、豊臣秀吉の小田原攻めに参陣しなかったため奥州仕置により改易となった。子孫に秋田白川氏(嫡流)、仙台白河氏、水戸結城氏、甲斐結城氏などがいる。 岩城氏は常陸平氏の血を汲む名族であり、その子孫が奥州に土着したことが岩城氏の始まりであると言われているが、石城国造の末裔であるとも言われている。 平安時代は奥州藤原氏と関係が深く、岩城則道の子とも安忠、繁衡の子とも言われる成衡が清原氏に養子に入ったほか、清原氏の出自自体も岩城氏の流れとする見解もある。また、祖の岩城則道の正室は奥州藤原氏出身といわれる。 鎌倉時代は地頭職に過ぎなかったが、南北朝時代に入ると好嶋庄の預所職である伊賀氏などを支配下に置き、磐城一帯の領国支配に成功したうえ、大館城(飯野平城)を建設し、常陸国から南東北にかけて勢力を伸ばし、また隆忠が嘉吉の内紛を抑えて全盛期を築き上げたのである。 しかし戦国時代に入ると、北からは相馬氏、東からは伊達氏や白河結城氏、南からは佐竹氏といった国人による侵攻を受け、岩城氏は苦境に立たされた。戦国時代中期の当主・岩城重隆は久保姫を伊達晴宗に嫁がせ、その嫡男である岩城親隆を養嗣子として迎え、その援助を受けることで何とか苦境を脱した。だが、皮肉なことに親隆に代わって伊達氏の当主となった弟の伊達輝宗の息子政宗が南奥州を制圧したために、岩城氏もその圧迫に悩まされることになった。 そして岩城常隆(親隆の子)が1590年、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣することで、所領を安堵されている。しかし常隆は、小田原征伐直後に病死したため、その後を佐竹義重の三男・岩城貞隆が継いだ。 1600年、関ヶ原の戦いでは、当初は東軍方になったが、実兄の佐竹義宣の命に従って、上杉景勝征伐に参加しなかったため、戦後、磐城12万石は没収されてしまった。この頃、岩城家の一部が、紀伊半島の白浜へ移住し、現在の南紀白浜地区を最初に開拓した。白浜の岩城家の地位は定かではないが、士族として明治維新を迎えた。維新後、白浜岩城家の数家が、屯田兵として北海道へ渡り、愛別町、白滝村を開拓した。 後に貞隆は信濃中村藩(川中島藩)1万石の創設を許される。その息子である岩城吉隆は出羽亀田藩の藩主であったが、子供のなかった伯父・佐竹義宣の養子に迎えられて秋田藩第2代藩主「佐竹義隆」となる。このため、今度は義宣・貞隆の弟(吉隆の叔父)にあたる多賀谷宣家が岩城氏に迎えられて「岩城宣隆」と名乗った。 岩城貞隆が岩城氏を継いだときに常隆には政隆という実子がいたが、貞隆は実家である佐竹氏の軍事力を背景にこれを伊達氏に追い払った。ところが、後に貞隆・宣隆の系統が断絶した結果、伊達氏から急遽迎えることになった養子は政隆の直系の子孫である岩城隆恭であった。このため、親隆−常隆の系統が150年ぶりに岩城氏当主に返り咲くことになった。 だが、このことが宗家である秋田藩との関係に亀裂を生むことになり、幕末には奥羽越列藩同盟に参加して官軍側に付いた秋田藩と対立するなど苦難の歴史を歩むことになった。