■骨材

モルタル、コンクリートの成分となる砂、砂利などの総称。 外国為替証拠金取引、桓武天皇より征夷大将軍に任命されて蝦夷討伐で活躍した坂上田村麻呂を祖とし、以下連綿と田村郡を領してきたとされる。 だが、応永期までの田村庄領主であった田村庄司家は藤原姓であり、それ以後に田村庄司職を奪取したとみられる田村氏(三春田村氏)は、田村義顕が大元帥明王社に奉納した大般若経に平義顕とあり、同様に田村清顕発行文書には平清顕とあることから平姓であることが明らかである。 その一方で両者とも坂上氏の後裔を称しており(田村庄司家は鎌倉大草紙、三春田村氏の場合は家譜類などに見える)、田村郡の領主は坂上氏の末裔でなくてはならないという伝統があったのであろうと思われる。それはこの地における支配の正当性を示すものであり、徳川氏が三河国の領主としての正当性を示そうと河内源氏を称したのと同種ではなかろうか。(三春町史などでは田村地方が坂上田村麻呂の功田の可能性があり、その子孫が鎌倉初期まで領したのではないかいう推察がなされている。また田村庄司家と三春田村氏が同じ平姓の一族であり、応永年間前後に総領職が移動しただけであるという説も一部にある。) 家紋は坂上氏の代表紋である車前草と桐、巻龍、蝶、巴などを使用しており、再興された近世大名田村家は伊達氏との縁から縦三つ引両も用いる。名に「顕」の一字を通字として用いる。 国人領主の一人であった田村氏は初め守山(一説には八丁目)城に拠っていたが、戦国時代に田村郡(田村庄及び小野保)内の在地領主を従えさせて、田村郡内における最有力者となり、戦国大名化した。これを端的に表すのが1504年の田村義顕による三春城への移城であろう。 外国為替には俗に「田村四十八館」とよばれる支城・出城を構え、要衝に一族・一門を配した。田村氏は篭城には向かない三春城の立地上、支城・出城のネットワークを用い、積極的な対外攻勢を常とした。家中には義顕の弟で月斎と号した田村顕頼のような軍師がおり、周辺諸氏からは「攻めの月斎」と恐れられ、「畑に地しばり、田に蛭藻、軍に月斎なけりゃよい」と謳われた。 その支配領域は近世に田村郡を支配した三春藩が5万5,000石であったので同程度と考えられがちであるが、田村氏の支配領域の石高はもっと多く、「田母神氏旧記」などにみられるように9万8,000石程度であろうと考えられる。当然時期によって盛衰があり、最盛期は安積郡や安達郡、岩瀬郡の一部が含まれ、10万石以上とも考えられる。 もっとも、豊臣秀吉による太閤検地までは貫高制であったこと、および田村氏は田村庄の庄司職を掌握することによって領内を支配し、田村庄は戦国時代末期まで続いた全国的に見ても特異な荘園であることを付記しておく。 このように戦国大名化した田村氏であったが、外部には蘆名氏、相馬氏、佐竹氏、岩城氏などの周辺諸大名からの侵攻があり、内部には大名権力による家中掌握が弱かったため独立性の強い在地領主層の抵抗・離反などに悩まされた。伊達氏とは友好関係であったが、後述するように安積郡を巡って衝突している。 義顕の子で三春城主田村隆顕は、伊達稙宗の娘を妻に迎え伊達氏の支援を受けるようになり、この窮地を脱している。隆顕の後を継いだ田村清顕も四面楚歌に陥ったが、伊達政宗に自身の一人娘である愛姫を嫁がせることで伊達氏と手を結び、田村氏の独立と版図を維持した。また隆顕、清顕の時代に積極的な対外攻勢に出ることができたのも伊達氏の後ろ盾があった故とも言えよう。(義顕の時代までは安積郡方面への侵攻を主としたが、仙道を南進する伊達氏と衝突したのちは岩瀬郡や石川郡、あるいは安達郡などへの攻勢に転じている。隆顕と伊達稙宗の娘の縁組も安積郡での伊達氏優位の和睦を受けてのことと考えられる。) 清顕には男子がいなかったため、1586年に清顕が急死すると、清顕後室を立て、家中が一致結束し自存していく方針を血判し確認した。だが、頼みの綱である伊達政宗と愛姫の不仲が伝えられていたこともあり、清顕後室が相馬氏の娘であった関係から相馬氏を頼ろうとする相馬派が田村顕盛(梅雪斎と号した隆顕の弟で小野新町城主)を筆頭として台頭し、清顕の遺志を尊重し伊達氏を頼って愛姫に子が誕生するまで自存するとした伊達派と対立した。このような中、1588年に田村領を狙った相馬義胤が田村家中の相馬派と結んで三春城入城を企てた。しかし、家中伊達派の筆頭橋本顕徳らにより相馬軍は三春城揚土門まで登りつつも退却させられ、その後これに端を発する郡山合戦が起こった。これは相馬・佐竹・芦名・二階堂連合軍と伊達・田村軍が郡山にて対決したもので、実質的に相馬家と伊達家の田村領をめぐる戦いである。勝利した伊達政宗は三春城に入城、清顕後室を隠居させ家中相馬派を一掃した。そして、清顕の甥である田村孫七郎を三春城主に据え、宗の一字を与え田村宗顕と名乗らせた。宗顕の父は清顕の弟氏顕で清顕と同母であるので宗顕もまた伊達氏の血を引いている。これら伊達政宗による一連の相馬家の影響力排除を「田村仕置」と呼ぶ。 なお、これによって田村氏が独立を失い、伊達氏家中に含まれたかのような説明がされることがあるが、そうではない。これ以後伊達氏の影響力が強まり、また宗顕も田村家中も政宗へ依存したが、宗顕は政宗と愛姫の子供が生まれるまでの「名代」とされ、中継相続人として期間限定的に田村家の家督を継いだと考えられる。このことから、伊達家の軍事的な配下ではあるが、あくまでも独立領主としての地位を保持していたと考えうるのである。 しかし宗顕は1590年、豊臣秀吉の小田原の役に参陣せず、奥州仕置によって改易され、田村領は政宗に与えられた。これは、田村家の家督は清顕より渡され自分にあるとした伊達政宗が宗顕の参陣を止めさせたためであり、結果的に政宗は奥州仕置を利用して田村領を乗っ取った形になった。この政宗の裏切りとも思える行為に宗顕以下田村家中は失望、憤慨した。宗顕は改易後、政宗の庇護の申し出を断り、牛縊定顕と名乗り隠遁した。政宗は田村家中も米沢へ招致しようと努めたが、田村家中の多くはこれを断り蒲生氏や上杉氏、相馬氏などに仕官するか、旧知行地に帰農した。 なお、宗顕は後に愛姫の意向により仙台藩領白石に身を寄せ白石城主片倉景綱の姉・片倉喜多の名跡を継いだ。また、他家に仕官した旧田村家中も蒲生家の改易や上杉家の減封による召し放ちによって浪々し、最終的に伊達家に仕官する者も多かったのである。 旧田村家中は主家の改易により蒲生氏や上杉氏、相馬氏などに仕官するか、旧知行地に帰農した(長男が旧知行地に土着帰農して先祖伝来の土地と墳墓を守り、二男以下は他家に仕え武家として存続した例やその逆も多い)。 帰農したものは近世に至って庄屋・豪農といった村落特権層を形成し、郷士や在郷給人といった待遇を受けるものもいた。実際、近世三春藩の庄屋層は田村氏の流れを汲むものや家中館主の後裔であると思われるものが多数を占める(もっとも、近世初期から幕末までその職分を一貫して得ていた家は少ない。三春藩では基本的に庄屋は世襲であったが、中期以降に経済力をもった新興豪農層に取って代わられることも多々あった)。 また、合戦の敗北による断絶ではなかったため、帰農した田村家の一族・家中館主とその子孫は敗北感を持たず、剛腹で武勇に富み、家門を称して村民からは「御屋形様」などと呼ばれた。山に囲まれた田村郡の地勢もあり戦国の気風が強く、新領主の蒲生氏や上杉氏は懐柔に苦労し、旧田村家中を庄屋に任じ在郷の士分として扱った(田村家中時代の知行高の10分の1を采地として与えられたと記述する史料もある)。そのため、彼らは在地の実力者として権勢を誇った。 しかし、それによる弊害も多く、秋田氏の入封後は平庄屋の苗字帯刀を禁止し、持高の制限を行った。給人庄屋と呼ばれる在郷給人に列せられた庄屋や割頭と呼ばれる大庄屋層はこれ以後も苗字帯刀御目見えなどの特権を維持したが、これにより庄屋の地侍的性格は否定された。 地侍的性格は否定されたが、三春藩における庄屋は藩命により転村することも多々見られ、支配の末端に属する藩の下級官吏的な面が強かった。また、庄屋層の中では新田開発や役儀精勤の功、特に由緒のあるものなどは在郷給人に列せられた。 在郷給人は給地や苗字帯刀御目見えの特権を与えられると同時に、臨時の軍役が課せられることもあるなど一般にいう郷士といえよう。