■腰壁

窓台から床までの間の壁。すなわち腰の部分にある壁。 セミナーは、本来足利宗家となるはずだったが、北条氏の介入によって廃嫡され分家した足利家氏を祖とする斯波氏が起源で、南北朝時代の延文期(1356〜60)に斯波氏傍流の奥州管領斯波家兼の子、斯波兼頼が出羽国按察使として山形に入部し、山形城を築城し本拠とする。そして、室町幕府より屋形号を許されて最上屋形と称したことを機に最上氏を称することとなった。 室町時代に最初の最盛期を迎えたが、やがて天童氏など同族内の争いが絶えず起こったために衰退し、最上義定の頃の1514年(永正11)には伊達氏と長谷堂城で戦って敗北し、一時は伊達氏の配下になる。義定の死後は庶流中野氏から迎えた最上義守を傀儡として、伊達氏から迎えた義定の未亡人が権勢をふるった。 監視カメラに入って伊達氏内部に天文の乱が起こると、最上義守は伊達氏から独立して戦国大名の道を歩み始める。そして義守の子・最上義光の代になると、庶族の天童氏、近隣の寒河江氏を滅ぼし村山郡を平定。さらには庄内地方の大宝寺氏や周辺勢力と対立するようになった。また、最上義光の妹の義姫は伊達輝宗へ嫁ぎ、伊達政宗を生んでいる。 1590年(天正18)に覇業を推し進める豊臣秀吉の小田原征伐を機に臣従、本領を安堵され、山形城を居城にして24万石を領する。1591年には雄勝郡を獲得した。その後、義光は娘駒姫を関白豊臣秀次の側室にしぶしぶ差し出す羽目に陥ったが、彼女は秀吉により秀次もろとも斬処されてしまった。これ以前より、義光は徳川家康に接近していたが、さらに豊臣氏と距離を置き、徳川氏に接近するようになった。秀吉の死後、関ヶ原の戦いが起こると、東軍方として上杉氏らと戦った(長谷堂城の戦い)。また、北隣の小野寺氏とも交戦し、上浦郡(平鹿郡・雄勝郡)一帯を制圧した。 粗大ゴミに伴う出羽合戦の恩賞で加増され、置賜郡を除く現在の山形県全土と秋田県由利本荘市周辺(1602年、佐竹氏との領土交換により雄勝郡・平鹿郡と引き換えた)を手に入れ、計57万石(実高は100万石とも称する)を領する大大名になり、二度目の最盛期を迎える。江戸時代に入ると、義光の後継をめぐって争いが起き、長子の義康の暗殺事件が起こる。以降も家中の内紛はやまず、義光の孫義俊の代には最上騒動が起こった。 義俊は家中の信望を失っており、1622年(元和8年)、最上氏は騒動を理由に幕命により改易されることとなった。宗家の斯波武衛家が滅亡していたので、斯波氏の流れを汲む最上氏は断絶を惜しまれ、近江国に1万石の知行を改めて与えられた。しかし義俊の死後、子の義智が幼少であったために5000石に減知され、子孫は交代寄合として続いた。 義光の4男山野辺義忠は最終的には水戸藩の家老に抜擢され、子孫は代々世臣として藩政に重きをなした(テレビ時代劇「水戸黄門」において大友柳太朗・高松英郎・丹波哲郎らが演じた、水戸藩の口うるさい国家老「山野辺兵庫」は、義忠の子の山野辺兵庫頭義堅をモデルにしている)。 脱毛にあたる松根光広の子孫は宇和島藩の家老家として続き、幕末には伊達宗城を補佐した松根図書が出ている。また、夏目漱石の弟子で俳人の松根東洋城は図書の孫である。 最上氏の系図には異説がある。特に4代満家の死後義定に至るまでの系図は信憑性が低いとされる。以下に主な異説を紹介する。 最上満家の死後、家督を継いだのは最上義春ではなく兄の最上頼宗で、義春は頼宗の死後に家督を継いだ。 最上義秋は頼宗・義春の弟ではなく、義春の子である。 最上満氏は義秋の養子ではなく実子である。 最上義淳は満氏の弟である。 子の異説の多い怪しい系図は最上義定の代に至り安定する。しかし、ほんのわずかな研究者は、最上義守の代からの庶流について異議を唱える。 包茎は最上義光の子ではなく義守の子で、彼と同一人物とされる最上光広(義光の5男)と義直とは別人である。 最上義光と中野義時(架空の人物か?)の間にもう一人兄弟がおり、名を最上義栄といった。 この他にも義守の子や義光の子については異説がある。 白鳥 長久(しろとり ながひさ、? − 天正12年〔1584年〕)は、戦国時代出羽の武将。白鳥城主(後に谷地に居城を移転)。通称:白鳥十郎。義国、武則など、他の名も残るが、いずれも完全に同一人物である。 現村山市最上川左岸を拠点とした国人領主。文武兼ね備えた名将といわれる。勢力を伸ばし、溝延地区を除く現在の河北町を支配下に加え、谷地城を築く。家督相続を巡って争っていた羽州探題最上義守、義光父子を調停したり(天正最上の乱参照、ただし近年はこの乱の存在自体に疑問が持たれている)、天正5年(1577年)、織田信長に使を出し名馬白雲雀を献上するなど、国内外でも高い評価を得た。信長と誼を結ぶことで領国の安定化を図ったが、この行動は、出羽統一を目指す最上氏の当主である最上義光の警戒を呼ぶこととなった。 天正12年(1584年)、義光の招きにより山形城に赴いた際に謀殺された。長久を失った白鳥氏は混乱し、義光によって攻め滅ぼされた。長久の血を浴びたといわれる「血染めの桜」が昭和初期まで山形城内に残っていた他、首塚が今に残る。ただし、「血染めの桜」については創作である。また、長久自身のさまざまな伝説、逸話についても、史料が乏しいためどこまで事実かは分からないものが多い。 トラック買取の相馬師常は鎌倉時代初期の武将千葉常胤の次男である。師常が父常胤より相馬郡相馬御厨(現在の鎌ケ谷市、柏市、流山市、我孫子市、野田市の一帯)を相続されたことに始まる。 常胤の子の内、師常のみが「胤」の字を継承していない。伝承によると師常は平将門の子孫である篠田師国の養子とされ、将門に縁の深い相馬御厨を継承させたとする。ただし、実際に将門が本拠としていたのは相馬郡ではなくて、その北の豊田郡・猿島郡であり相馬郡はその周縁部でしかない。これを坂東平氏を代表する武将である将門と相馬郡を結びつけて相馬氏による相馬郡支配の正当化を図ったとする見方もある。 実際は、相馬御厨は平忠常以来の房総平氏の代々の土地であり、平常長の五男で上総氏の祖である常晴が既に相馬氏を称していた事が確認される。常晴は実子の常澄と折り合いが悪く、甥で師常の祖父である千葉常重に家督を継がせているが、諸系図では常澄が相馬六郎と号していた事が確認され、常澄の九男である常清も相馬氏を称していた事が確認される。そして上総広常の失脚と共に、師常が相馬御厨の地に据え、それに因んで相馬氏を称したのが実情らしい。尚、常清の系統は姓を相馬氏から角田氏に改めている。 師常の子孫は相馬御厨を中心として活動していたが、4代胤村の死後、先妻の子・胤氏と後を託した後妻の子・師胤(5代)が家督を争った。師胤は父の譲状を鎌倉幕府に提出したが、幕府はこれを認めず、胤氏を継承者として認めた。このため、師胤の子・重胤(6代)の代に所領として許された陸奥国(磐城)行方郡に入った。なお、胤氏一族は下総に残留して下総相馬氏となる。 この両家はその後も所領争いを繰り返し、南北朝の戦いでは奥州側は北朝方下総側は南朝方であった。また、後の小田原の役でも敵対関係となり、奥州側は大名として残ったのに対して、下総側は小禄の旗本として衰退する。両相馬が正式に和解したのは18世紀に入ってからとされている。 下総、陸奥の他にも分家、諸族は日本全土に拡散しており、彦根藩に仕えた一族の末裔からは相馬永胤を輩出している。 下総の相馬氏は鎌倉時代後期に内紛によって衰退したものの、室町時代には古河公方家に従属して守谷城を本拠地として再興した。だが、戦国時代には北条氏に付くかどうかで分裂し、反北条派である庶流の相馬治胤が家督を奪った。だが、治胤は北条氏に降伏後、小田原の役で同氏に属したために改易、江戸時代には子孫が旗本となっている。 奥州の相馬氏は、南北朝時代の初期は南朝が優勢な奥州において数少ない北朝方の一族として活躍したものの、南北朝の争乱が収まるとやや衰退し、室町時代後期に標葉氏を滅ぼしたものの、それでもなお、戦国時代初期には、行方郡・標葉郡・宇多郡の三郡を支配するだけの小大名に過ぎなかった。しかし、武勇に秀でた当主が続き、更に独立心が旺盛で、奥州の大名・伊達氏、更に関東の雄・佐竹氏に対しても一歩も退かず、伊達氏とは三十度以上にわたって抗争を続け、たびたび苦杯を舐めさせている。やがて伊達氏に伊達政宗が現われ、南奥州の諸大名が政宗の軍門に悉く降った時も、相馬氏は敗戦したとはいえ、独立を維持し伊達氏と戦う意地を見せたという。そして1590年、豊臣秀吉の小田原の役に参陣して所領を安堵された。1600年の関ヶ原の戦いにおいては中立、佐竹氏の先代で隠居していた佐竹義重による徳川方への派兵に対しては領内の通過を認める。このため、戦後徳川氏により改易の危機を迎えたが、これを凌ぎきり本領安堵にこぎつけて近世大名として生き抜くことに成功した。 相馬氏の戦国大名としての意地を思わせる相馬野馬追が、現在でも行なわれ、後世に相馬氏の勇壮さを示しているが、一説には、これが、いわゆる「繋ぎ馬」の紋の原型になったとも云われる。第十三代・相馬因幡守誠胤は、明治時代のスキャンダルである相馬事件(相馬騒動)の発端となった人物でもあった。これは、後に精神病者監護法の成立に影響し、実質的に座敷牢の合法化として機能し、民政に大きく影響した。第三十三代当主和胤は、麻生太郎内閣総理大臣(92代)の妹雪子の夫である。 なお、「繋ぎ馬」の紋は、現在、築土神社や神田明神など、平将門を祀る諸社で社殿の装飾等に用いられている。