■結露現象

冬期暖房を切った後などに、建物の内壁に起こる現象で、 その位置の湿った空気が露点以下になったときに空気中の水蒸気は液体となる。 これを結露という。したがって、結露には表面結露と内面結露がある。 視力回復は多くの支族を抱えていたが、その中で南部師行は南部氏としては記録上初めて、南北朝時代に北畠顕家に従って奥州に下向した。師行は糠部の八戸の地に根城(現在の青森県八戸市根城)と呼ばれる、従前に工藤氏の拠っていた城を接収し、居城とした。師行が一時、工藤氏を称していたとの説もあるが、そもそも南部氏は清和源氏、工藤氏は藤原氏とされていることから考えると、にわかには信じがたい。 南部師行の子孫は八戸氏を称し、一般には根城南部氏と呼ばれる。従来、根城南部氏は南部氏の有力な分家として見られてきたが、近年の研究では、根城南部氏が当初は南部氏の宗家に位置付けられていたと推定されている。いずれにしても、根城南部氏は南朝を支持していたために南朝の衰退に伴って14世紀半ばからは次第に力を弱めたが、17世紀前半までは下北地方などを領有し、南部氏のなかでも比較的大きな勢力を有していた。 美容整形には、所領のうち下北地方を、幕藩体制下で宗家としての地位を確固たるものにした三戸南部氏(盛岡南部氏)によって接収され、寛永4年(1627年)に遠野(現在の岩手県遠野市)に移される。これ以後の根城南部氏は遠野南部氏と呼ばれ、江戸時代を通じ、盛岡藩の世襲筆頭家臣であった。なお、遠野南部氏が、日蓮に帰依し身延(現在の山梨県南巨摩郡身延町)の地を寄進したとされる八戸実長(波木井実長)の子孫を称するようになるのは江戸時代後期になってからである。 三戸に根拠を置いた系統は三戸南部氏と呼ばれる。三戸南部氏の系譜は明確ではないが、南北朝時代に奥州に下向した南部氏の一族と見られている。従来、三戸南部氏は鎌倉時代にこの地に下向した南部氏の宗家と考えられてきた。三戸南部氏は南北朝時代には北朝を支持していたが、いつごろ南部氏の宗家としての地位を築いたのかははっきりしない。 レーシックも場合によっては三戸南部氏とほぼ同格の存在として見なされることがあり、戦国時代には九戸氏も南部氏一族の有力者として幕府に認知されており、少なくとも室町時代から安土桃山時代にかけての南部氏には宗家と呼べるような確固たる権力を所持する家が存在しない同族連合の状況であった。根城南部氏の当主とされている南部信長が上洛して武田信虎(武田信玄の父)の世話になって室町幕府の第13代将軍足利義輝に拝謁したという記録の存在も指摘されている。 このような曖昧な状況に終止符が打たれたのは、豊臣秀吉による、いわゆる「天下統一」事業により、三戸南部氏の当主である南部信直が所領を安堵され、また津軽為信に与えられた津軽地方の代替地として閉伊郡、和賀郡、稗貫郡が与えられたころである。近世大名として同族連合を否定し、有力一族も家臣として服属することを求められたことに反発した九戸政実は信直と激しく対立する。秀吉は政実を近世的秩序である「豊臣の平和」への反逆者として全力で討伐を開始する。政実は滅ぼされ、全国的にも近世秩序を再確認する契機にもなった。 その後、居城を三戸から盛岡に移し、根城南部氏に対しては遠野への知行替を行い、三戸南部氏が南部氏の宗家としての地位を確立した。 近世には盛岡藩から八戸藩が分立するが、これは、盛岡南部氏の当主南部重直が、実子、養子の死後、将軍 徳川家綱に面会して後継者選定と家の存続を願い、それに基づき重直の死後に家綱が裁定して、寛文4年(1664年)12月に重直の異母弟の南部重信に2万石減封して盛岡8万石を与えて家を相続させ、同じく異母弟(重信とも異母兄弟)の南部直房に新知として八戸2万石を与え、事実上の分割相続を行った際に創立したものである。 エステサロンの南部直政は、将軍 徳川綱吉の側衆を経て側用人となり、江戸時代において南部氏で唯一、幕政に参画した。重信は後に幕府に盛岡藩の高直しを願い出て、領地に変動なく、また八戸藩を含むものではなく、8万石から10万石となっている。 七戸藩(盛岡新田藩)は、重信以後の盛岡南部氏の分知旗本南部氏に、盛岡南部氏が更に分知を行い、幕府に願い出て分知大名としたものである。分知旗本家の創設の際、七戸藩の創設の際、いずれの分知も名目上は新田開発による打出高を当てたため(新田分知)、盛岡藩の石高に分知の前後で変動はない。 分知旗本南部氏は二家あり、共に南部重信の子を初代とする。後に七戸藩にならないもう一家は当主の南部利正が盛岡藩主となったとき、幕府に願い出て盛岡藩に併合された。 斯波氏は、足利家氏が陸奥の斯波郡(岩手県紫波郡)を所領としたことから斯波氏と称するのを始まりとする。ただし当初は足利氏を称しており、斯波を名字とするのは室町時代となってからのことである。 斯波氏初代とされる家氏は足利泰氏の長子であり、本来ならば足利宗家の後継となるはずであったが、生母が北条氏一門では非主流派の名越氏の出身であったため、北条得宗家の時宗の叔母が産んだ弟の頼氏が足利宗家を継承した。しかし、身分が鎌倉幕府の直臣たる御家人であることに変わりはなく、足利氏の庶流が足利家の家人になっていったのに対し、従来通りに足利の名字を称して一線を画した(庶流は細川、一色などと新たな家名を立てた)のである。 家氏の子孫は代々尾張守に叙任されたため、別名尾張足利氏ともいう。尾張足利氏は足利氏一門の中でも、嫡流、三河足利氏(後の吉良氏)、と並び称される勢威のあった家で、足利氏本宗家当主が幼少の時は代役を務めている。 元寇以来、得宗専制に走った鎌倉幕府は次第に他の御家人を圧迫するようになり、社会に不満が溜まるようになる。後醍醐天皇は倒幕の綸旨を下し、大きな転換期を迎えた。当初、幕府方として後醍醐の企てを阻止する側に加わっていた足利尊氏は次第に倒幕の志を秘めるようになり、一門の重鎮 吉良貞義に相談の上、朝廷側への寝返りを決行。斯波高経や斯波家長らも足利尊氏に従い、活躍した。その後、足利尊氏は武家を軽視する建武政権と袂を分かち、武家の支持を集めながら武家政権設立を目指す。とりわけ斯波高経は足利氏と同族で、鎌倉幕府を滅亡させた立役者である新田義貞を越前で討つなど活躍し、初期の室町幕府においては勢力を持った。特に、斯波家長は奥州総大将として南朝方の北畠顕家らと対抗し、北朝方を徐々に優勢に導いてゆき、奥州で斯波一族が指導的役割を果たす基礎を築いた(奥羽における斯波氏については奥州斯波氏を参照)。 武衛家とは斯波氏の嫡流、すなわち室町幕府の管領をつとめた家柄をいう。武衛とは兵衛督および兵衛佐の唐名で、当主が代々任ぜられたことに由来する。 斯波氏は室町幕府において執事(後の管領)として任用されるようになる。しかし、幕府は将軍家の家政機関であり、将軍家とほぼ同列の格式を持つ斯波氏が幕府の要職に就くということは、将軍家より格下で臣下だということを認めることであった。事実、それまで足利氏の執事は臣下の高氏が歴代務めていた。そのため当初、斯波高経は臣下がなすべき執事への就任を渋っていた。しかし、結局は高経の子 斯波義将が執事に就任し、高経がこれを後見することとなった。 幕府の執事となった斯波義将は佐々木道誉の策謀により一時は失脚。後に幕政に復帰すると、管領の細川頼之と対立し、反細川派の勢力を結集し、3代将軍足利義満に頼之の罷免を求める康暦の政変で管領となる。 斯波義将は義満の没後も将軍足利義持を補佐し、朝廷から義満に対する太上天皇の尊号を追号する事を拒否したり、勘合貿易の廃止を提言するなど影響力を持った。 幕府において三管領四職七頭の制ができると、斯波氏は畠山氏、細川氏と管領を出す家柄として重んじられ、他の二家を抑えて三管領筆頭の家柄を有するに至った。斯波義重は1399年の応永の乱における大内氏討伐の功により越前国・尾張国の守護職を与えられ、以降世襲する。しかし、義将死後は衰退への道をたどり、斯波義重は1414年に将軍足利義持の不興を買い、高野山に隠退、1409年に管領職を譲られた孫の斯波義淳もまもなく解任され、足利義教が6代将軍に就任するまで長い間、幕府から冷遇される事となった。