表面に着色、印刷、塗装を施した合板。
M&A・蠣崎慶廣の代には上洛して、天下を平定した豊臣秀吉(関白、太閤)に拝謁することで本領を安堵された。これによって秋田氏(旧安東氏)から名実ともに独立する事になった。天正19年(1591年)、秀吉の命に応じて九戸政実の乱に参陣。秀吉の死後は徳川家康に接近して慶長4年(1599年)、姓名を松前慶廣に改める。その後、慶長8年(1603年)徳川家康は征夷大将軍の宣下を受ける。こうして征夷大将軍のお墨付きを得て松前と改めた蠣崎氏は、江戸時代を生き抜くことに成功したのである。当初は米が穫れない蝦夷において無石の島主扱いに過ぎなかったが、5代・矩広の代に交代寄合を経て、享保4年(1719年)には大名に昇格し正式に1万石格の松前藩藩主となった。
16世紀末から廃藩置県の頃まで、現在の青森県のうち津軽と外ヶ浜を支配した大名。通し字は「信」
本姓はかつて清和源氏を称していたが、途中で藤原氏に変えている。
住宅ローンの系図では、清和源氏の一流で河内源氏の傍系 甲斐源氏の流れを汲む南部氏の庶家 大浦氏を祖とするとしている。しかし、主家である南部氏との対立から独立、主家との因縁もあって源氏の家系を捨て近衛家の傍流を自称した。そのことを取り繕うため、津軽氏はしばしば近衛家に莫大な贈り物をしたうえで、同家の当主に対し、津軽家の系図への加筆を求めている。
津軽の領主としてのはじまりは、南部氏の家臣であった大浦為信が1571年に独立して津軽と外ヶ浜を強奪したこととされる。そして津軽と外ヶ浜を占領した為信はその後豊臣秀吉から所領を安堵され、近世大名としての地位を確立した。この頃、「大浦」より「津軽」に改姓した。徳川家康の時代に入ってから為信は家康に属して関ケ原の戦いに参陣し、津軽氏は江戸時代も大名として生き抜いた。
しかし、このような経緯から南部氏と犬猿の仲にあり、1821年には南部氏の浪人・相馬大作が津軽藩主の暗殺を謀るなどという事件も起こっている。
なお、2代信牧には将軍家から満天姫が嫁ぎ、14代義孝の娘華子は皇室に嫁いでいる。
CFDの庶流に当たる大身で、南北朝時代に陸奥の国司として下向した北畠顕家の子孫が、陸奥の津軽地方を支配したことから始まるといわれているが、顕家の弟である北畠顕信の末裔ともいわれることがあり、顕家(又は顕信)以前に浪岡姓を名乗る一族が存在し、顕家(又は顕信)の子孫が入婿となったのが始まりとされることもある。顕家以前の浪岡氏は奥州藤原氏の末裔であったともいわれる。
後醍醐天皇の命により国司として奥州を支配した顕家の時代には、二度までも足利尊氏を危機に追い込むほど強勢を誇ったものの、顕家が二度目の上洛戦で戦死し、勢力を引き継いだ弟の顕信も、傘下の武士の離反や幕府より奥州に派遣された吉良氏や斯波氏のために勢力を衰退させていったという。顕信の後半生ですら不詳であり、それ以後の歴代当主の事跡は戦国期に登場した具永(後述)以前のものは判然としてはいない。名族に列し、浪岡城を拠点としたことから『浪岡御所』と呼ばれて、陸奥の諸大名から尊敬されたという。また、京都の公家とたびたび交流を持ち、陸奥の地に小京都と呼ばれるほどの貴族文化を花開かせた。そして京都の公家たちとの交流が深かったことから、浪岡氏の歴代当主は侍従や左中将など、高位の官位を歴任したと伝わる。
16世紀前半に名君・北畠具永が現れて浪岡北畠氏は全盛期を迎えたが、その子・北畠具統の頃から文化面で奢侈に走ったために財政的に困窮し、次第に衰退しはじめた(なお、具統は具永に先立って若死したという説もある)。そして具統の子・北畠具運の時代に一族内部で家督と領地をめぐっての抗争が勃発し、1562年に川原御所の乱が起き、具運は一族の川原御所北畠具信に殺されてしまう。これにより浪岡北畠氏の衰退は決定的となった。
その後、具運の子・北畠顕村が後を継いだが、戦国大名として独立を図る津軽為信に攻められて領地と居城(浪岡城)を奪われて、ここに国司としての浪岡氏は滅亡した。傍系の一族が津軽氏・安東氏に仕え浪岡氏として存続したと伝わる。
消費者金融の役では清和源氏の源頼義が現在の盛岡に来歴したが、頼義の子で源義家の弟の源義光の子孫は甲斐源氏と呼ばれ、南部氏、武田氏、小笠原氏、佐竹氏などに分かれた。南部氏は南北朝時代から戦国時代にかけて急速に勢力を伸ばし、はじめは三戸(現在の青森県三戸郡三戸町)に居城を構えていたが、豊臣政権を後ろ盾として九戸政実を鎮圧、九戸城を福岡城(岩手県二戸市) と改め移転した。さらに前田利家らの仲介により豊臣秀吉から閉伊郡、和賀郡、稗貫郡の支配も認められると、本拠地である三戸が領地の北側に大きく偏ることとなった。
源義光の玄孫の源光行は甲斐国南部牧(現在の山梨県南巨摩郡南部町)に住み、南部氏を称した。なお、光行の兄の源長清は甲斐国小笠原に住み、小笠原氏の祖となる。
平安時代末期の奥州合戦のころ、南部氏の初代当主である南部光行が糠部(現在の青森県から岩手県にかけての地域)の地に土着したとも言われるが、裏付けに乏しい。しかし、この時代から土着していた痕跡とされるものが八戸の習俗として残っている。旧正月12日に八戸・上北地方で行われる八戸えんぶりがそれである。
『奥南旧指録』によれば、承久元年(1219年)の暮れに南部光行が家族と家臣を連れて由比ヶ浜から出航し、糠部に至ったという。
また『吾妻鏡』によれば、南部光行が糠部に下向した最初の正月、大晦日を前にして正月の準備が全く揃わない事態となり、困った家臣が光行に相談したところ、光行の「ならば南部の正月は12日だ」との鶴の一声で、以後南部氏の正月は12日となり、南部氏においては領民共々正月は12日に祝うようになったとされ、世間においては「南部氏の私改め」と評判を呼び、それが正月の伝統行事とされた八戸えんぶりへと継承された。このエピソードは当時の南部氏が、後の南部氏と違い、如何に弱小で困窮していたかを知る上でも貴重なエピソードでもある。
南北朝時代になると、奥州鎮撫を目的とした義良親王(後の後村上天皇)を奉じた北畠顕家に従い、伊達行朝と共に南部氏も奥羽に下向する。やがて本拠地である甲斐から離れ、陸奥に移住して陸奥北部最大の勢力を持つ一族に発展した。しかし、一族内の実力者の統制がうまくいかず、そのために内紛が頻発し、一時、衰退した。
戦国時代になると、三戸南部氏の出身で南部氏第24代当主である南部晴政が現われ、他勢力を制して陸奥北部を掌握した。晴政は積極的に勢力拡大を図り、南部氏の最盛期を築き上げた。また、晴政は外交にも優れており、中央の織田信長とも誼を通じるなどしていた。しかし、その後は家中の内紛に苦しむことになる。晴政の晩年には南部氏の一族とされる大浦為信(津軽為信)が南部氏からの独立の動きを見せ、為信に津軽地方と外ヶ浜と糠部の一部を占領され、為信は豊臣秀吉から所領を安堵されたために南部氏は元々不安定だった大浦氏の統制を完全に失うことになる。天正10年(1582年)に分家出身の南部信直が晴政、晴継父子から家督を相続した際に晴政親子が急死していることから、晴政親子は信直によって暗殺されたとする説もある。
天正18年(1590年)、南部氏第26代当主である南部信直は豊臣秀吉の小田原の役に参陣して南部七郡の所領を安堵された。同族の九戸政実が起こした九戸政実の乱も豊臣政権の手で鎮圧され、南部氏は安定した基盤を得ることとなる。
江戸時代を通じて三戸南部氏は盛岡藩として存続する。分家で大名とされた家には八戸藩と七戸藩(盛岡新田藩)がある。
明治時代になると、盛岡藩主の南部氏および八戸藩、七戸藩の2分家は華族に列せられ、明治17年(1884年)に旧盛岡藩主の南部利恭は伯爵、分家の旧八戸藩主の南部利克および旧七戸藩主の南部信方は子爵とされた。八戸氏を称していた根城南部氏(遠野南部氏)は士族となり、明治29年(1896年)に南朝の天皇への忠節を賞して特旨をもって華族に列せられ、当主の南部行義は男爵とされた。九戸政実の実弟の中野康実の系譜を引く中野氏は士族とされた。なお、八戸氏および中野氏は、江戸時代末期より南部を称することを盛岡藩主の南部氏より許され、以後、南部を称している。
南部利恭の長男で南部氏第42代当主の利祥は日露戦争で戦死し、利祥には子がなかったので、利恭の次男で利祥の弟の利淳が第43代当主を相続した。利淳には一男一女がいたが、長男の利貞は早世したために、長女の瑞子に公爵一条実輝の三男の利英が婿入りして第44代当主を相続した。南部氏の第45代当主(現当主)の南部利昭は利英の三男で、現在は靖国神社の宮司である。
なお、鎌倉時代から明治維新まで同じ所領に居続けることができたのは南部氏の他には薩摩の島津氏などごく少数で、所領が中央政権(幕府)から遠く離れていたのが理由と考えられている。
明治維新の際に松前家は函館戦争などで官軍に属して戦うなどしたものの、いまひとつ大きな戦功がなかった。その後も、華族の子爵には列したものの全般的には不遇の時代を送ることが多かった。太平洋戦争時にも当時の当主が陸軍上等兵で出征、戦死するという他家には無い苦難にも見舞われている。現在は横浜市に居住している。