鋼片に焼刃をつけ、塗装ケレンに用いる工具。
鋼帯板を曲げて焼刃をつけたものがスクレーバーである。
ケレン手工具として使用されている。
テレマーケティング、村上義清や北信豪族の要請を受けた長尾景虎(上杉謙信)は本格的な信濃出兵を開始し、以来善光寺平の主導権を巡る甲越対決の端緒となる(第1次川中島の戦い)。このときは晴信も景虎も軍を積極的に動かすことなく、5月には両軍ともに撤退した。同年8月には景虎の支援を受けて大井信広が謀反を起こすが、晴信はこれを直ちに鎮圧した。
信玄は信濃進出に際して敵対していた駿河今川氏と相模北条氏の和睦を進めており、天文23年(1554年)には嫡男義信の正室に今川義元の娘を迎え、甲駿同盟を強化する。また娘を北条氏康の嫡男氏政に嫁がせ甲相同盟を結ぶ。今川と北条も信玄が仲介して婚姻を結び甲相駿三国同盟が成立する。三国同盟のうち、北関東において景虎と抗争していた北条氏との甲相同盟は相互に出兵し軍事同盟として機能した。
弘治3年(1557年)には将軍足利義輝による甲越和睦の御内書が下される。これを受諾した景虎に対し晴信は受託の条件に信濃守護職を要求し、信濃守護に補任されている。また、この頃には出家しており、翌年に信濃佐久郡の松原神社に奉納している願文が「信玄」の初見史料となっている。
家庭教師は北信侵攻を続けていたものの謙信の上洛により大きな対戦にはならなかったが、永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いは一連の対決の中で最大規模の合戦となる。両軍合わせて6,000人余の死者が出たと言われ、武田方でも信玄の弟・武田信繁をはじめ諸角虎定、山本勘助、三枝守直ら有力家臣を失ったという。
第四次川中島合戦を契機に信濃侵攻は一段落し、以後は西上野出兵を開始しており、この頃から対外方針が変化しはじめる。永禄7年(1564年)にも上杉軍と川中島で対峙したが、衝突することなく終わっている(第5次川中島の戦い)。
川中島の戦いの後、信玄は侵攻の矛先を上野に向けたが、上杉旧臣である長野業正が善戦した為、捗々しい結果は得られなかった。しかし、業正が永禄4年(1561年)に死去すると、武田軍は後を継いだ長野業盛を激しく攻め、永禄9年(1566年)9月には箕輪城を落とし、上野西部を制圧することに成功した。
看護師 求人、武田氏の盟友であった今川義元が、織田信長によって桶狭間の戦いで討たれたことにより、今川家が衰退の兆しを見せ始める。このため、信玄は今川氏との同盟を破棄して駿河に侵攻しようと計画するが、義元の女婿である嫡男・武田義信とその傅役・飯富虎昌が激しく反対する。信玄は永禄8年(1565年)に飯富虎昌を切腹させ、永禄10年(1567年)10月には義信を廃嫡し、自殺に追い込んだ(病死説もあり)。
その上で、永禄11年(1568年)12月、三河の徳川家康と共同で駿河侵攻を開始する。今川軍も抵抗したが、松野山で荻清誉を、薩垂山で今川氏真軍を破り今川館へ入った。しかし、今川氏と縁戚関係にあった北条氏康が今川氏の援軍に駆けつけ、大軍をもって薩垂山を封鎖。両軍は睨み合いとなったが、輸送部隊を襲われたことにより物資が不足、さらに駿河征服を企む家康も氏康と同盟を結んで信玄と敵対したため、北条・徳川連合軍と戦う不利を悟り、永禄12年(1569年)横山城に穴山信君を抑えに残し、4月に武田軍本体はひとまず甲斐に撤退した。
同年9月、信玄は2万の大軍を率いて、北条を叩くべく上野・武蔵・相模に侵攻する。10月1日には小田原城を包囲するが、その4日後の10月5日には早くも包囲を解いた。北条は北条氏照・北条氏邦等を武田軍の甲斐への退却路に布陣させ、小田原からは北条氏政らが出陣し挟撃する構えを取った。10月8日、三増峠において武田軍と北条氏照・氏邦軍が激突、序盤は北条軍優位であったが、山県昌景の高所からの奇襲が成功し戦局は一変、北条本隊が到着する前に敵陣を突破し窮地を脱した。(三増峠の戦い)。北条軍はこの合戦で受けた損害を埋めるために駿河から軍勢を呼び戻したという説もある。
デザイン会社の頃から、北条氏康は病を得ていたようで、北条家は本国の防衛に重きを置くこととなった。越相同盟が完全に機能せず、武田と佐竹、里見の同盟が成立し、関東の防備に不安を覚えたこともその理由とされる。こうして北条軍の駿河守備は手薄となった。元亀元年(1570年)7月、満を持して再び駿河に侵攻、北条の守備隊を撃破し完全に平定するに至る。
遠江・三河侵攻と甲相同盟の回復
永禄11年(1568年)9月、将軍足利義昭を奉じて織田信長が上洛を果たした。ところが信長と義昭はやがて対立し、義昭は信長を滅ぼすべく、信玄に信長討伐の御内書を発送する。信玄も信長の勢力拡大を危惧したため、元亀2年(1571年)2月、信長の盟友である徳川家康を討つべく、大規模な遠江・三河侵攻を行う。信玄は同年5月までに小山城、足助城、田峯城、野田城、二連木城を落としたうえで、甲斐に帰還した。
元亀2年(1571年)10月3日、かねてより病に臥していた北条氏康が小田原で死去し、後を継いだ嫡男の氏政は、「再び武田と和睦せよ」との亡父の遺言に従い(氏政独自の方針との異説あり)、謙信との同盟を破棄して弟の北条氏忠、北条氏規を人質として甲斐に差し出し、12月27日には信玄と甲相同盟を回復するに至った。この時点で武田家の領土は、甲斐一国のほか、信濃、駿河、上野西部、遠江・三河・飛騨・越中の一部にまで及び、石高はおよそ120万石に達している。
永禄8年(1565年)、信玄と信長は東美濃の国人領主・遠山直廉の娘(信長の姪にあたる)を信長が養女として武田勝頼に嫁がせることで同盟を結んだ。その養女は男児(後の武田信勝)を出産した直後に死去したが、続いて信長の嫡男である織田信忠と信玄の娘である松姫の婚約が成立しており、徳川氏とは軍事的衝突を行いながらも織田氏と武田氏は引き続き同盟関係にあった。
元亀3年(1572年)10月3日、将軍・足利義昭の信長討伐令の呼びかけに応じて信長との同盟を事実上破棄して、上洛するために甲府を進発した(ただし、信玄は信長に友好的な書状を送り続けるなど、なおも同盟を続行させるかのような行動を見せている)。約3万の全軍のうち、3千を秋山信友に預けて信長の領土・東美濃に、山県昌景に5千を預けて家康の領土・三河に、そして自らは馬場信春と共に2万の大軍を率いて青崩峠より遠江に攻め入った(これには後北条家の援軍2000も加わり、総勢は2万2000ともされる)。
信玄率いる本隊は10月13日、只来城、天方城、一宮城、飯田城、各和城、向笠城などの徳川諸城を1日で落とした。山県昌景軍は柿本城、井平城(井平小屋城)を落として信玄本隊と合流し、秋山信友軍は11月までに東美濃の要衝である岩村城を落とした。
これに対して、信長は浅井長政、朝倉義景、石山本願寺の一向宗徒などと対峙していたため、家康に3千人の援軍を送る程度に止まった。家康は10月14日、武田軍と遠江一言坂において戦ったが、兵力の差と信玄の巧みな戦術に敗れた(一言坂の戦い)。12月19日には、遠江の要衝である二俣城を陥落させた。
劣勢に追い込まれた家康は浜松に籠城の構えを見せたが、武田軍の動きを見て兵1万1,000を率いて出陣、遠江三方ヶ原において、12月22日に信玄と一大決戦を挑む。しかし兵力の差、並びに信玄の戦術の前に大敗を喫し、徳川軍は多くの将兵を失い敗走した(三方ヶ原の戦い)。このとき、家康は馬で逃走する際に、恐怖のあまり馬上で脱糞したと伝えられている。
しかしここで盟友・浅井長政の援軍として北近江に参陣していた朝倉義景の撤退を知る。信玄は義景に文書を送りつけ(伊能文書)再度の出兵を求めたものの、義景はその後も動こうとしなかった。
信玄は軍勢の動きを止め刑部において越年したが、元亀4年(1573年)1月には三河に侵攻し、2月10日には野田城を落とした(野田城の戦い)。